例えば、今この瞬間にも、我々には無数の宇宙線が突き刺さっているんですけれども、皆さん痛いですか。誰も痛くないですよね。それはなぜかと言いますと、宇宙線は突き刺さっているというよりは、通過しているからです。

我々を通過しているんだけれども、ほとんど何の相互作用も持っていないので、我々は何も感じない、というだけなんですね。でも宇宙線は存在しているんです。無数に我々を通過している。

だから、例えば我々がいて、宇宙線が無数に通過している、そのような絵を描いたとして、この絵そのものは決して間違っているわけじゃないんです。この人間も存在し、この宇宙線も存在している。けれどもこれらは相互作用を持っていない。厳密に言うと、相互作用をほとんど持っていないと同然なので、現象としてほとんど何も起こっていない。まあ、長期的にはほんのわずかな相互作用も、何かを起こし得ますが、それはともかく現象としてまあ何も起こっていないというのは、我々はその宇宙線というものを認識することができないということなんですね。

ところが何らかの理由によって、この宇宙線というものと我々が相互作用を結ぶようなことが生じたら、それはもう「空(くう)」ではなくて、現象として何らかが生じることになるわけなんです。それを「因縁」といいます。「相互作用」と同じ意味です。英語ではinteractionですね。「空」の思想を簡単に説明すると、以上のような内容になります。

これに対して、いわゆる「唯識」では、ものごとの成り立ちはこの「因縁」によるのではない。起こっていると我々が「妄想」しているところのあらゆる現実、「妄想」しているところのいろんな事物というものは、それらがそれら自身として根源的に存在しているのではない、と言います。

全てはそれらそのものから自立的に発生しているのではなくて、我々の「識」、言いかえれば「心の作用」、これだけが最終的な実在だということなんです。

後でも出てきますが、いわゆる「健全なる循環」ということが起こるときには、もちろん、何らかここに「(いわゆる)実在する」ものを「認識する」ということが起こるのが「健全」なんですけども、実は、これが「ここに存在する」ということを認識するためには、必ずしもこれがここに絶対に「なければいけない」というわけではないんです。

例えばよく知られていることですけども、通常、腕が痒いと感じるときは、腕があってはじめて痒いと感じると思っていますよね。指先が痒い。そのようなときは、指先が実在して、その指先が痒いという感覚が出るはずなんですけれども、よく知られている事実として、ある日突然腕を交通事故か何かで切断したと。もう腕はない。もちろん指もない。けれども、とても指先が痒いということが、非常によく経験されるわけです。

それはもう紛れもない事実で、指先が痒い、猛烈に痒くて、もう掻きたくて仕方がない。でも掻けないですよね、だって無いんだから。しかしそういうふうな感覚に見舞われることがあることは、たくさん報告されています。ただし、その痒い感じっていうものはだんだん消えていきます。いつまでもあるわけではないです。

ですから、さっき「健全な(循環)」と言ったのは、実際に指があって、そして指が痒いというのがもちろん「健全な」状態なんですけれども、指が痒いという感覚は、必ずしも指が「(我々が通常考えている意味で)実在する」ことを前提にするわけではないということなんです。

先ほど、何かを認識するためには、必ずしもそこに認識する対象物が実在することを前提とはしない、というふうに申し上げたのも、実はそのことを言っているんですね。通常は、このようにこういう物があって、それを認識して、これがある…というふうに思います。確かにそれが健全な姿なんですけれども、だからといって絶対に、どのような場合でも「これ(物)がなくては、これを認識することはできない」のかって言うと、必ずしもそういうことではないということなんです。最終的な実在はこれ(物)じゃないということなんです。最終的な実在は、あくまでも我々の心の中にあるということなんです。

では、本に戻りましょう。この間いらっしゃった方には、この本の解説をちょっと致しましたけども、この桐山靖雄さんという人は、現在のいわゆる阿含宗をやっていらっしゃる方です。この本は30年ぐらい前に書かれたもので、当時は「観音慈恵会」という名前の教団でいらっしゃいました。この本は、小説仕立てになっていてとても読み易く書かれているんですけれども、実はこの本には種本があって、その種本というのは、それなりにきちんとした学者が書かれたもので、基本的なことがとてもきちんとかかれていますので、安心して読むことができます。

この次のところは非常に重要です。61ページを開けてください。

「要するに、だ」と康融が言う。

「老師の言われるのはこういうことだ。人間の存在とはなにかというと、それは、“心の流れ”だというわけだな。われわれの心はつねに生じた瞬間に滅してまた次の瞬間の心と交替し、これをくりかえして消滅する心が一つの流れを形成するわけだ。だから、人間存在とは“心の流れ”つまり心相続にほかならないわけで、われわれはこの心の流れで世界を認識してゆく。すると、おれの心とおまえの心とは違うから、当然、おれの認識する世界とおまえの認識する世界とはちがうことになる。

さっき言ったことですね。

おれたちは今まで、おれの住んでいるこの世界もおまえの住んでいるこの世界も全くおなじ世界だと信じていたが、これは間違いで、全然ちがう世界なんだな。すると、この世界というものが、おれとおまえとではちがうということになると、これは、世界という[いわゆる]実在は無い[存在しないという]ことになってしまうわけだ。[最終的に]実在するのは、おれの心とおまえの心だ。

まあ、待て、そういうと、またおまえの得意の、その心が実在するというのも虚妄なんじゃないか、という論が飛び出してきそうだが、少なくともいま世界という表象を論じているこの限りでは世界という表象を生起せしめているところの心という存在だけはみとめなくちゃならん。

そこで、だ。つまり、おれの心の流れがおれの世界を見ているわけで、それを離れて世界は実在しないということになる。それはおまえの場合もおなじことだ。そこで、つまり老師のいわれる“心を離れて外界に存在すると一般に認められているものは、実は心が生み出した表象に過ぎない。

心を離れて外界に存在する、例えばこの本だとか、チョークだとかそういうものですね。そういったものも、我々の心が生み出している、といっているわけです。

外界の物質的存在が心に映写されて表象が形成されるのではなく、心の中にそのものが存在しているのだ”とこういうことになる」

 

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