森羅万象セミナー

第2回 §13

講義がはじまる。

「識」とは、認識機能を意味する語である。「心」(citta)、また、「意」(manas)と いう語も同義語である。[略]「識」は、[五つの器官]および思考力に媒介された六種 の認識機能であり、「意」はそれに伴う自我意識(一部の潜在意識を含む、末那識)をあ らわし、「心」は通常の認識機能の根底にある深層意識(アーラヤ識)をあらわすが、心 も意も認識機能の一部であり、広義の「識」概念に包括される。

ところで、この六種の認識機能と自我意識は、深層意識に対して「現勢的な識」とよばれ る。

 この“現勢的な識”は、(通常われわれが考えているように)外界に存在する対象を認 識するのではないのである(それとは反対なのだ)。

この「現勢的な識」というのは、この前五識、それから意識、それから自我意識であると ころの末那識です。ここでは、これらはまず何らか認識すべき対象があるから、それを認 識する、という順番のものではない。それとは反対であるというんです。

識が機能するということは、識が対象の形象を自らの内部に知覚することにほかならない が、対象の形象も、それを知覚する能力も、潜勢的なかたちで潜在意識のなかに存してお り、それが現勢化するときに認識作用が行なわれるのである。したがって、真にあるの は、表象をもって生じている自らを知る識の作用のみであって、(通常考えられるよう に)外界の対象とそれを認識する自己とがあるのではないのだ。

つまり、いうなれば、そこに花があって目がそれを見るのではなく、深層意識の中に花と いう形象が[もともと]潜在的に存在しており、同時にそれを知覚する能力もまた存在し ていて、それが現勢化する[何らかの理由によって、何らかのきっかけによって、とにか く現勢化する]ときに花の認識作用がおこなわれるのである。

今、あえて「何らかの理由によって」というふうに申しました。「何らかの理由によっ て」ってあえて言ったのは、通常の「健全」な状態においては、対象が、いわゆる存在し て、ここにその対象が、実際に・・・まあ実際にっていうのもなかなか難しいですけど も・・・いわゆる「実際に存在」することによって「現勢化する」、対象によって刺激を 受けてと申しますか、「対象が存在することによって、現勢化する」、もしくはその現勢 化にはそれに対応する「実在が伴う」ということが「通常」起こる。けれども必ずしも、 まあしつこいようですけれども、対象が伴わなければ絶対に現勢化しないというわけでは ないということなんです。

通常はそうなることが「健全・健康的な」状態ではあるけれども、現勢化するための絶対 的な条件、絶対的な前提ではない。対象が「実際に」存在しなければ絶対に「現勢化」し ないというわけではなくて、「何らかの理由」によって現勢化することもあるというわけ です。

そうして、現勢的な識は機能すると同時にその余習を深層意識の中にのこす。深層意識と は、無限の過去からの認識・経験(記憶)の余習がたくわえられている蔵[アーラヤ] で、その余習は、未来における作用の潜勢力として成熟し、機が至れば、つまり縁が熟す れば現勢化する。現勢化した識は機能した瞬間に滅して次の瞬間の識と交替し、こうして 現勢と潜勢の二重構造を持ちつつ生滅する識が、一つの流れを形成する。だから、認識の 主体としての自己(つまり、知るもの)も、客体としての物質的存在(知られるもの) も、ともに「識の流れ」の上に仮構されたものにすぎない

「仮構される」というのは、仮にそのように「構築」されているのに過ぎない、あくまで も仮の存在であるということですね。最終的な実在ではない。

実在しない自己を仮構するのは自我意識である。無限の過去からくり返された自我の仮構 の余習(我執習気)が深層意識の中に保持され、それが成熟して現勢化したものが自我意 識であるが、それは深層意識の流れを自我と見なす思惟を本質としている。

自我意識に伴われることによって、六種の機能は、自己が器官を媒介として自我の外にあ る対象を認識するという性格を帯びることになる。識の上にあらわれた表象は、知覚器官 によって把捉され、意識によって思惟される対象として客体化される。

表象は個別的なものであるが、意識はそれを思惟によって類化し、それに名称をあたえ る。対象をことばによって表示する慣習が、名称とその表示対象を生ずる潜勢力(名言習 気)を潜在意識の中につちかっているので、個別的な表象に対して「壷」「布」などの語 が適用され、同時に表象は「壷」「布」などという語に対応する実在と見なされるのであ る。

語によって表わされるもの、概念が指示するものは、思惟によって「仮構されたもの」、 「想像されたもの」であって、真実には識の上にあらわれた[単なる]表象にほかならな い。「壷」「布」などが外界に実在すると考えるのは、あたかも魔術師が木片に咒文をか けて現わし出した幻の象や馬を実在と思いこむようなものである。

要するに――、唯識学説が主張し立証しようとしているのは、「概念の虚妄性」というこ とであり、その概念の虚妄性は、無限の過去からの経験の余習に根ざした思惟に由来する というのである。

「概念の虚妄性」ですね。この「概念」ということについて、少し話しましょう。我々 は、何らか「概念」というものをどうしても作ります。「概念」「観念」というものを持 ってない人は誰もいません。では、なぜ我々は「概念」というものを持ってしまうのかと いうことなんです。まあこれはいろんな、どこから始まったのかということには、いろん な説明の仕方があります。

続く

森羅万象インデックスへ


Copyright© 2002-2008 Japan Homeopathy Foundation All Rights Reserved