例えばキリスト教においては、それはアダムとイブが禁断の実を食べたということから始まっているっていうことになっています。それはどういうことなのかって言うと、アダムとイブの言うその食べた禁断の実というのは、それはいわゆる「善悪を知る木」であったわけです。

神様は「『命の木』の実は食べていいけれども、『善悪を知る木』の実は決して食べてはいけない」と言った。アダムとイブは「善悪を知る木」の実を食べてしまった。この「善悪を知る木」の実というのは、一体何を意味するのかっていうことですね。その木の実を食べてしまった後、二人は何をするか。自分がいわゆる裸であることに気が付いて、恥ずかしくなって何か木の葉をまといまして、それを見て神様は、その「善悪の木」の実を食べたということを知るわけです。これはどういうことなのか。

それまでね、アダムとイブというのは、どのように生きていたのかと言うと、その世界の循環の中で分断されることなく、分離することなく、世界の循環の中になりきっていたわけです。それがいわゆるその善悪を知る…「善悪」…つまりこの「善」と「悪」。

この宇宙の「実相」ですが、本来いわゆる善とか悪とか、こんなものは勝手に人間が作り出した概念であって、そのような、100%完全なる悪とか、完全なる善というものは無いわけです。この宇宙にそんなようなものは無い。もっと言うと、善とか悪というのはさっき言ったように、あくまでも人間が作り出した勝手な概念であって、もともとこれらは一体であって、分けられるものではないわけなんです。

どのようなものでも、どのように「悪」のかたまり、「善」のかたまりのように見えるようなものでも、それ自身が絶対的な悪とか善というものでない。どのようなものであれ、この統一的宇宙において、それぞれの「存在理由」「意味」というものを持っている、統一体の一部であり、一部と言ってもその部分的一部ということでなくて、その「欠くべからざる一員」「構成要素」、どれ一つ欠けてもこの宇宙そのものが根底から成り立たないもの、宇宙開闢以来の全プロセスが成立しないものですが・・・その統一体の有機的な循環を成しているわけですけれども。

この「善悪」という分別、何か物事を分別(ぶんべつ)してしまうような方向性、これを人間が持ってしまった故に、あらゆることを「全一的」に見ることができなくなり、何かを一面的に切ってみたときのある側面のみしか見えず、全体を失うことになってしまった。この「全一的」というのは、物事を区別することなく、あらゆるその統一体の中の有機的な一員、循環、流れとして見る、ということです。

最近よく聞く言葉で、すごくつまらない言葉ですが、「善玉菌」とか「悪玉菌」とか言われますよね。完全なる善玉とか悪玉とか、そんなことがあるわけではないんです。勝手に人間の都合で、自分にとって都合のいいものを「善玉」、都合の悪いものは「悪玉」と呼んでいるだけの話であって、あえてその言葉を使うとすれば、本当はその両方であるわけです。善とか悪という言葉をもし使おうとすれば、それにはいろんな側面があるので、その中で都合のいい物・悪い物に、そういう形容詞を付けているだけなんですね。そしてその言葉が出来てしまうと、あたかもそういうものが「実在」しているかのような偏った世界観、妄想を抱いてしまうわけです。ともかくここにも見られるように、人間は全一的な見方というものを、失ってしまったわけです。

この「全一的な見方」を「般若」というわけですね。物事を分けて見ないこと。この統一的宇宙の中で、あらゆることには全て役割があって、何一つ無駄な物であるとか悪い物っていうのは、本当は存在しない。何らかが存在するっていうことは、必ずそれでなければならないような、それでなければ働くことができないような、何らかの役割というものが必ず存在するわけであって、そうでなければ絶対に存在しないわけですけれども。とにかくこの「般若」、この「全一的な知恵」、「観」、そういうものが失われてしまうということなんです。

そして、言葉というもの、まあ言葉というものもいろんなレベルがあるわけですけれども、今ここで「言葉」というときは、「概念」とはまあ同じ意味で使っています。あくまでも「ここでは」に過ぎませんけどね。ここでは同じ意味です。

この「概念と言葉と同じことです」って言った時のこの「言葉」と、例えば、聖書の中のヨハネの預言書の中にある、有名な「初めに言葉ありき」というフレーズ、あの中にある「言葉」っていうのはこれとは全く違う意味です。あの「言葉」っていうのは、実はエネルギーのことなんです。このような概念的な一面的な言葉を意味しているわけではなくて。この宇宙の始まりには何があるのか、それはエネルギーであったと言っているんですけれど、まあそれはいいでしょう。

話を元に戻しますと、我々の思考というものは、いろんなものを仮構するということでしたね。本当はそれは存在しもしないのに、まるであたかも存在するが如く、仮構します。仮に構築する。そして、それに勝手に名前を付ける。

例えば、名前を付けると言えば、現代医学にいろんな病名があります。これは全て仮構されたものであって、勝手にある分類というものをやって、ある面、さっき一面的と言いましたが、ある面から何かに勝手に、例えば症状の特徴でこのような症状のあるものを「何とか病」と呼ぼうと。まあ例えばそんなようなことで、そこからある仮構された存在形態っていうものが、できてくるわけですけれども。

例えば、我々はまあいろんな言葉を使いますけども、例えば「美しさ」というものは概念です。でも「美しさ」という「もの」ってありますか。「美しさ」というものは存在するのでしょうか。存在するのは「美しい花」なんです。「美しい花」は存在します。これはまた小林秀雄の時に詳しくお話しますが・・・

まあもう少し言うとね、井筒俊彦さん的表現では「存在が花している」ということになるんですけれど、この「存在が花している」ということはもう少し後にお話しします。だけども、いわゆる「美しさ」、これは概念であり、最終的な実在ではなくて、まあいろんなことからね、ある何かを感じとり、それをある種の分類をして、この「美しさ」という概念の中でまとめたわけです。「美しさ」という概念というのはどちらにしても、仮構されたものなんです。そこに本当に存在するのはあくまでも「美しい花」とか、まあ本とか、何でもいいんですけれど。

ただしこの「美しい」というのも、これもまたいろいろあるんですけど、まあこれを、1回「積分」すると、「美しい花」になる。我々が「美しさ」というふうに考えているんだけれども、よく考えてみると「美しさ」っていう「もの」はない。あくまでも「美しい花」があるだけである。それをまた微分すると、「美しい」と我々が感じる。いったいその感覚はどこから来たのかということが出てきますよね。どちらにしても、またゆっくりお話しましょう。

余談ですが、昨日大阪にいたんですけれども、セミナーが終わった後で、食事に行きました。道頓堀に行ったんですが、そこに「かに道楽」という店がありましてね。そうしましたら、3メートルぐらいあるような、大きなカニの模型がね、こうやってひらひらと足が大きくゆっくり動いているわけなんです。普通に見るとすごくグロテスクなんですけど、それを見て、2歳の娘が「ああかわいい」と言ったんです。みんなびっくりしまして、これからあの子にかわいいと言われてもあんまり喜べないな(笑)という話をしていたんですけれども。そう言えば、私もよくかわいいと言われるんですけれど(笑)。それはまあ措いておいて、我々が、何を美しいと感じたりかわいいと感じたりするのか、ですね。

 

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