森羅万象セミナー

第2回 §15

そうですね、今日はその次の話まで行ければいいなと思いますけれども。

この次の話として、さっき、「存在が花している」と言いました。「花が存在している」のではない。「花が存在している」のではなくて…まあ一般的には「花が存在している」というふうにもちろん言うのですけれども、でも花は、最終的な実在ではないのでね。

最終的な実在の姿、物の本当の実相というものは何かって言うと、「存在が花している」ということなんです。でこの時の「存在」というのは、まあエネルギーなんですけども。この、あるエネルギーが現勢化した。現勢化については、さっきお話しました(2-13)。その、エネルギーが現勢化したものが、たまたま「花」している。何かお茶でもしているみたいですけど、花をしている。花というあり方に表現をされているということなんです。現勢化しているということは、表現をしているということなんです。

唯識の話は、まあ今まだ途中なので分かりにくいかもしれないんですけれども、だんだんだんだん、こういう話の方に行くんです。最終的な実在というのは、違う言葉で言うと、「存在のゼロポイント」ということであります。

とにかく、ここでいう「概念の虚妄性」ということ、そしてこの「概念」ということは、この我々の「言葉」、さっき言った、我々が日常的に使っているこの「言葉」に、実は極めて深く関係をしているんです。

我々は「言葉」を作り出しているわけですけど、また「言葉」によって我々が規定をされています。「言葉」によってまた支配されています。そして、もともとは「何かに対して」「言葉」を付けたはずなのに、その「言葉」によって、それが「実在」するというふうに、我々の頭の中でどこかしらで思い込んでしまいます。これはいちいちそういうことを考えているということじゃなくて、「言葉」になっているものに対しては、何らかそれが「実在」するような妄想を、我々は自動的、先験的に抱いています。

「言葉」というものは、通常はある一つの方向しか指し示すことが難しいです。例えば、「小さい」というと、小さい方向しか指し示しません。「大きい」というと大きい方向。「美しい」とか「醜い」とか、どれもある一つの言葉の方向しか、やはりなかなか指し示し得ないわけです。まあ実はもともとの古代の言葉はそうではなくて、両方のニュアンス、両極性を持っていた、つまり、小さいという意味と同時に大きいという意味を持っていたのですが、話がややこしくなって意味なく混乱させてしまうので、ここでは止めます。

例えばこれ(たとえばペン)を一言で全て表してみてください。小さいでしょうか、それとも大きいでしょうか。一言で表現しつくしてみてください。…何も言えないですね、そうですね。まさにこれはこれ、ということしか、言い様がないわけですけれども。でも我々の認識機能というものは、どうしてもいろんな要素に分けて、分別して、いろんな側面から切って、そしてこれを表そうとする。そのような機能というものを、我々は持っているわけなんですが。

それを、この言葉の呪縛と申しますか、言葉によって仮構されているところの世界から、どのようにして我々が自由になるか、開放されるのか。これはもうもっとずっと先の話なんですけども。どうしたら、この仮構の世界ではなくて、最終的なその実在に「直接的に」行けるのかということ。

それについて、昔から人間はいろんなことをしてきたわけですけれども、その一つが例えば禅ですね。禅ではどういうふうにしているか。まあ禅ではいわゆる二つの流れというものがあります。ただ単に座る、「只管打坐(しかんたざ)」と言いますけれども、とにかくただ座る。それともうひとつ、いわゆる「公案」を解くというのがあります。公案を通過する。

公案って何でしょうか。公案っていうものは、いわゆる「合理的な思考」、いわゆる仮構された思考では絶対に解けないような問題を出されるわけです。

例えば、「隻手の公案」ってあります。要するに片手の公案ですね。こうやって手を叩きますと音が鳴ります。では、片手で打ったらどんな音がするかという問題です。これいわゆる合理的な思考では解けません。まあ解けないというか、ある種答えはすぐ出ますよね。つまり「音はもちろん鳴りません。終わり! なぜこんな馬鹿げた質問をするんですか、あなたはどこか頭がおかしいんじゃないですか」と、まあそういうことです。この公案って結局何かっていうと、そのようないわゆる「合理的な」と申しますか、いわゆるこの仮構された、そのような世界観、そのようなあり方では、絶対に解けないような問題なんです。

ではどのようにすれば解けるのかっていうことになります。まあ解けるかっていうか、公案を通過するといいます。これは結局の所は、先ほど申し上げた「存在のゼロポイント」にまで立ち返らないと絶対に解けない。その「存在のゼロポイント」というのがこの世の実相なわけです。そして、自分の全存在を懸けて対峙しないと、全く見えてこない、どうしようもないような問題です。自分の全存在、全存在をそこに懸けないと、全く見当も付かない。

さっき言ったように、「片手で打ったら」って言われると、我々は「片手で打ったら」という言葉にすごく囚われます。片手で打てるわけないではないかというふうに思うわけです。でも、「片手で打てるわけないではないか」と思うのは、いわゆる「合理的思考」という、我々の極々一部分だけで、そういうふうに思っているだけなんです。我々のそれこそ全存在をそこに賭けているわけでもなく、我々の極々一部分で、馬鹿げているなっていうふうな反応をするわけなんです。

そういうことではなくて、先ほど言いましたような「全一的」な「般若」に、どのようにして戻っていくのか、ということ。今あえて「戻っていくのか」というふうに申し上げましたけれども、人間というものは、本来は、完全なる存在であり、この般若の知恵を持っている存在であるはずなんです。そのような存在として作られているのですが、だけどもまあ我々は、いろんな理由(わけ)があって凸凹があるわけです。

続く

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