• 講演者:永松昌泰
  • 講演日:2010年7月19日
  • 会場:大阪産業創造館(大阪)

第一部 「『科学』が生み出す錯覚」永松昌泰

 「ホメオパシーの科学性」というテーマでお話しするのは、今日が二回目になります。一回目は、四月のセミナーでした。「社会人基礎力」というテーマを皮切りにして、科学というテーマについてもさまざまなお話をさせていただきました。

 「科学性」というテーマを考えるにあたりましては、大きくは二つの方面から考えなければなりません。一つは、現在、通常で行われているところのコンベンショナル(伝統的)な方法に対して特に批判を加えず、そのまま鵜呑みにして、その路線でやるとどういう結果になるのかを見ること。それから、もう一つは、その方法そのものをもう一度根本的に考え直す、それが果たしてその事象に対して本当にふさわしいやり方なのかどうかということを根本的に検討し直す、ということです。科学には、この二つのアプローチが必要であるわけです。

 四月のセミナーのときには、二つの論文を引用いたしました。「ホメオパシーは、医学の主流に組み入れられるべきである」というテーマに対して、賛成と反対、両方の立場の論文です。ホメオパシー反対派の論文は、スタンフォード大学医学部の教授で、この分野についてそれなりの知見があるとされている人ではありましたが、残念ながら、その論文はあまりにも粗雑かつ感情的で、ホメオパシー反対の論文としては非常に幼稚なものでありました。確かにほとんどのホメオパシー反対論は、その論文のレベル以上のものではありませんが、相手としてはあまりにもレベルが低いなということが正直なところありました。

 その後、もう少しましなものはないのかな、と思っていたわけですが、ある生徒さんから『代替医療のトリック』(原題:Trick or Treatment?)という本が出版されていて、これに衝撃を受けている生徒もいるという話をお聞きいたしました。翻訳は、割と正確です。今は時間が一時間しかありませんので、この本についての本格的なお話はできませんが、近いうちに一日かけまして、これを徹底的に精読、精査するセミナーを開きたいと思います。(11月28日に行いますので、ぜひお申し込み下さい)

 さて今日は、最初の一時間の中で、ある話をじっくり聞いていただきたいと思っております。小林秀雄さんの話です。小林秀雄さんは、文芸評論家で非常に有名な方です。以前は大学入試問題の定番だったこともあって、知らない人はいなかったのですが、最近は入試問題にはほとんど出てこないらしいですね。小林秀雄さんを知らない方もずいぶんといらっしゃるようで、驚きます。

 小林秀雄さんは文芸評論だけではなく、あらゆるものを俎上に上げ、評論、批評をされている方です。評論というのは、たとえば小説があって、その小説に近づいていくわけです。近づかないで、ああでもない、こうでもないということを論じても何も意味がありません。ですから小林秀雄さんは、対象にどのようにして近づいていくべきなのか、それを自分の全実存、全存在をかけて、一生対峙し、考え続けた人でした。対象に近づいていくには、どうしていかなければならないのか、いかにしてその物事のありのままに近づいていくのか。それが、小林秀雄さんの一生のテーマです。この方は、あまり講演はされない方なのですけれども、講演の中で非常に重要なことをお話しになっていらっしゃいます。この講演を、今日のお話の皮切りにしたいと思います。

 今日のセミナーでは、松本丈二先生の「科学」についてのお話をメインにしていきたいと思っております。けれども、最初に小林秀雄さんの話から入るのには、理由があります。そしてこの話は、松本先生のお話と、きっと密接に絡み合ってくると思っています。ただ、最初に断っておきますと、実はこれはとても深く、とても高級で、難しい話です。表面的で、簡単な話ではありません。たとえば、「科学には再現性が必要だ」とか、「メタアナリシス(注・より信頼ある結果を導くために、複数の研究結果を統合する分析法)がどうだ」とかいう狭い意味での科学的な話は、一度説明を聞けば、簡単にわかります。でも、これからお聞きいただく小林秀雄さんの話というのは、ある意味シンプルなのですが、実は非常に難しいのです。ほとんどの皆さんは、その本当の意味を、最初は理解できないと思います。簡単そうで、実に難しい話なのです。

 今日、最初の一時間にこれをやるかどうか、ずいぶんと考えましたが、非常に重要な話であり、今日の基本テーマである「本当の意味の科学とは何か」について考えるとき最も根幹的な話ですので、この話に絞っていきたいと思います。そして、我々はそこから、科学の本質について、つまり本来科学とは一体何であるのかについて考えていきます。物事にありのままに近づこうとする優れた評論家と同じで、現実に起こっている事象、起こっているものに対して、いかにしてありのまま近づいていけるかということ、科学とは、これに始まりこれに終わるからです。

 余談に過ぎませんが、この『代替医療のトリック』という本については、冒頭ですでに引っかかりました。この本を貫いている精神とは何かというところで、医学の父ヒポクラテスの言葉が引用されています。「科学と意見という、二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む」。このヒポクラテスの警句を指針として、今日急速に人気の高まっている多種多様な代替医療に科学の目を向けていく、と、高らかに宣言しています。

 しかし、ここにすでにトリックがあります。Scienceという言葉の曲解もしくは誤解です。Scienceという言葉は「科学」と訳されていますが、それはここ数百年の産物に過ぎません。確かに、Scienceの語源となる言葉は、ヒポクラテスの時代からありました。しかしそれは、今日で言う科学を意味したわけではなく、「知識」という意味だったわけです。ですからこの言葉の意味は、「科学は知識を生み」ではありません。「単なる意見ではない知識は、真の知識を生む」という意味です。そのことを御存知ない。まさにヒポクラテスが言う、知識の欠如から来る「無知」を露呈しています。

 または、著者はそれを知っていて、わざと使ったのかもしれませんけれども、まさに最初の文言からして「トリック」です。あたかも現代で言う科学が昔からあったかのような、科学という言葉が現代のような意味で使われていたかのような幻覚を与える、そういうトリックです。今度精読するときに、きちんとお話しします。どうでもいいような、つまらない話ではありますが……ただ、著者は最初からそんな調子です。

 では、小林秀雄さんの講演を聞いていただきたいと思います。一九七四年に行われた、「信ずることと考えること」という講演です。昔の録音であり、ちょっと聞きづらいところもあったりいたします。最初の部分はカットして、肝心なところから始めます。あのユリ・ゲラーの話が出てきます。

(小林秀雄の講演)

この間、ユリ・ゲラーっていう青年が、念力の実験ってのやりまして、大騒ぎになったことありますね。あれ、僕、面白かったんですよ。それでね、そんなことから話そうと思って。

実は、私の友達に今日出海(こん・ひでみ)っていう男がいて、このおとっあんていうのがね、もう今亡くなったけども、日本の一番まあ古い船長さんだね、日本郵船の。それで、船ばっかり乗ってたんだけども、船長辞めてからね、心霊学というものに凝っちゃった。それで、クリシュナムルティって有名な神秘家がいますよ、インドにね。これはもうずっと昔、その人の会員になりましてね。それは非常に有名な人だったわけだけれども。だから、僕はああいうことは昔から知ってんです。学生のころからね。それで、今度ユリ・ゲラーってのが、いろんなその念力っていうもの、いろんなことをやるっていうんでね。それで、テレビ見てたんですよ。そんなのも面白かったからね。

僕はゴルフをやってんです。毎週、今君なんかと行くんですがね。あるとき今君と、あと二人、漫画家の那須良輔ってのと、もう一人の男と、四人でゴルフに行ったんですよ。そしたらね、僕はそのテレビがあるなんてこと知らなかったんですよ。そしたら茶店のおばあさんが、今の顔を見てね、「あのー、私んとこ、時計が動きました」と、こう言うんだね。何のことやら僕はわからない。だが、それはね、今も知らなかったんだけどもね、今の兄貴の今東光(こんとうこう)というのがいるね。あの今東光という男がね、ユリ・ゲラーの時計を動かす実験に立会人に出てたんだよ。だから、そのおばあさんはだね、そのテレビを見てて、自分で壊れた時計を持って、「動けー」って念じていたんだね。そしたら動いた。そんときに今東光はそばにいたから、今東光の弟ってことでよく知ってますからね、今の顔を見たら、(略)「私の時計動きましたよ」って、こう声かけたんだよ。それからいろいろ話聞いたの。そしたらねえ、いろんな人が「動いた」「動いた」って言うんだね。

それで面白くなってね。今君の家にね、その次にテレビに出るときにね、みんなで集まったんだよ。面白いからみんなやってみようじゃないか。その日は僕と今君と、やっぱりおんなじメンバーだったな。四人でね。今度は時計が動くだけじゃなくて、スプーンを曲げるなんていうこともやるんだって言うんだね。
そのユリ・ゲラーっていうのは、カナダかなんかにいるんだよ。それで、「私は念力をかけるから、諸君、壊れた時計を握ってくれ。六時半には私は念じるから、諸君も私と一緒に念じてくれ」と。時計よ動け、それから、スプーンを曲がれ、と念じてくれと。

で、ちょうど六時半になったんだよ。で、今君が、「俺んとこにどっか壊れた時計あるだろう」と。そして奥さん探してきたら、二つあったんだよ。昔壊れて、ほったらかした時計、私がそれ一つ持ってた。それから、那須君もまた一つ持ってた。それから今君のね、一番下の娘さんがね、結婚して、子どももあるんですけども、これが、スプーンを持ってた。それで六時半になったからね、「動けー」って言ったんだよ。したら僕の時計は動いたんだよ(会場笑い)。それから那須君の時計も動いちゃったんだよ。それからねえ、今さんのその、末の娘さんね、娘さんが「キャーッ」と言ったらね、曲がっちゃったんだよ、スプーンが(会場笑い)。それでね、まあね、私は面白いなあと思っていたの。

そしたら、しばらくたったら、このスプーンはインチキでね、ここんとこで曲げちゃうんだ、手品だってことが出たでしょ。私は手品でも何でもない、妹さんのがギュッと曲がったの見てましたからね。これは手品でも何でもないんだよ。曲がったんだよ。それはね、確かなんだよ。だからつまらないことだよね、そんなことは。私はそういうこと、よくもう昔知ってるしね。それは私のちょうど高等学校のころだな。随分ああいうものがはやりました。今さんのおとっあんなんかもよく知っててね。ああいう念力ってものはねえ、すぐだめになっちゃうんですよ。ユリ・ゲラーなんか、あんな商売してりゃ、もうすぐだめになるんだ、ああゆうの。鈍っちゃうんだね。

だから子どもにはそういう念力があるんだけども、やっぱりそんなに、いつまでもできるもんじゃないんですよ。そういうことはもうわかっていることなの。昔からわかってることなんだよ。で、スプーンが曲がるとかなんとか、そういうものに、まあ、手品だとか、やれ子どももああいうことをして儲けようとかね、いろんな人が出て、まあ大騒ぎになって。

私、注意してね、そのころの新聞や雑誌をこう見てたんだよ。世間じゃこういうものをどういうふうに言うのかってね。と、実にまあ浅薄(せんぱく)なんだね。ほんとに浅薄ですよ。批評がね。僕はそんなスプーンが曲がるとか、やれ念力がどうの、箱の中の物が当たるとか、千里眼とかね、そんなものよりもだね、驚くべきことは、まあ世間にいっぱいあるんで、そういうことに対する、今のその知識人の、インテリゲンツィアの態度だね。実に駄目ですね。ああいうものを一体どういうふうに受け取ったらいいのか。

僕たち教養のある、君らだってそうだろう、知識人がだね、ああいう不思議なこと、つまり念力っていうんだな、念力岩をも通すって言うだろう。念力岩をも通すっていう意味はね、何でも自分で一所懸命やったらば成功するっていう、そういうたとえですよ。だけど念力ってものは、岩を本当に通すかもしれんじゃないか。そういうことをどういうふうに考えてるの、諸君は。そういうふうな態度だね。ああいう不思議っていうものに対する態度。その態度が実に曖昧でね。嘲笑的態度を取るか、それとも面白いなって面白がる、なんかスポーツでも見るような態度を取るか、どっちかでしょう。

で、真面目に考えないですね、ああいうことを。それが僕は気に食わないんですよ。一人ぐらいはだな、ああいう不思議なことがあった場合に、今の知識人ってものは、どういう態度でああいう不思議なもの、念力っていうようなものに態度を取るのが正しいかということを考えるやつはないんだね。今、本当にそういうことじゃ堕落してます。今、みんなおしゃべりばっかりいるけども、ちょっとしたそういうふうなことに対するね、正しい態度っていうものが、ないんだね。

 これが冒頭部分なのですが、ここにすでに、非常に重要なメッセージが入っています。ここではたまたまユリ・ゲラーの話でしたが、今現在自分が持っているところの知識ではなかなか理解ができないこと——それを「不思議」と呼んでいますが、「不思議」というのは今現在の自分の知識や通常の世間的な知識では、今のところ理解することができないものを指すだけであって、それ以上でもそれ以下でもありません——そういうものに対してどういう態度を取るのが正しいのか、真面目に問う人がいない。もう浅薄でどうしようもない。世間一般は仕方がないけれど、インテリゲンツィアと呼ばれる知識人の態度は、どうしようもなく堕落している、というわけです。

 そしてその態度は二つに大別される、といいます。一つは、頭から嘲笑的な態度。ほとんどのいわゆる知識人と呼ばれる人は、頭からこの態度です。「そんなことがあるわけがないでしょ! この科学が発達した世の中にそんなことはあり得ない。この世に不思議なことは一つもない。すべてが説明可能である。不思議そうに見えることは、実際には何かのトリックか手品である。必ず何らかのトリックがあるのに間違いない。私にはわかる!」。そういう浅薄さです。

 そう言えばずいぶん前ですが、こんな話が月刊誌に載っていました。科学者だったと思います。こんなことを得意気に書いていました。「実は、私はユリ・ゲラーのトリックを世界でただ一人知っている。世間の人はこんなことをなぜわからないんだろう。でも私の目はごまかせない。時計が故障する原因の多くは、実は油切れである。時計が動いたのは、時計を手で持っていたから時計が温まり、その結果、油が一時的に温まって動いただけである。ユリ・ゲラーはそれを利用して、うまく演出しているだけだ。私にはわかっている。これで彼の言う念力をすべて説明できる。実はトリックだ」。こういう、実に浅薄な考えなんですね。

 もう一つの態度は、スポーツ観戦でもするような感じで、ただ面白がる。真面目には考えない。この二つのどちらの態度も、実際に起こっている現象に対して、かすり傷ひとつ負わせていない。ただ、浅薄な自己満足をしてしまっているだけというわけです。

 さて、今からがメインで、フランスの哲学者、アンリ・ベルグソンの話が出てきます。そしてその後に科学の話が、出てくるのですが、時間の関係から小林秀雄さんの科学論は残念ながら割愛し、私がそこのところを少しお話しします。それでは、どうぞ。

(小林秀雄の講演)

そういうことがはやったころ、私は大学まだ入らなかった。大学入ってたかな。うん、入った直後くらい。そのときにベルグソンのね、そういう念力に関する本を読んだことがあるんですよ。それで、ああなるほどと思ったことがあります。それを僕は今度、何か諸君にお話ししようかなって思っていたらね、そんなことをちょっと考えたもんでね。この間また読み返してみたの。その本はね、1913年に出た本ですよ。13年に行った、ベルグソンの講演です。諸君はあんまり読んでおられないだろうと思うからね、念力というものに対して、ベルグソンはどういう態度を取ったかということをお話しします。
これはもうずいぶん前の、1913年の講演ですから、そのころロンドンにね、心霊学協会というものがあったんです。で、念力というものについて、学者たちが寄っていろいろ考えた。そのときにベルグソンが、その心霊学協会に呼ばれたんです。呼ばれてロンドンで講演したんです。その講演の手記なんですよね。それで、読み出してみると、もうちっとも、今日でも、彼の意見は変わらないで大丈夫な意見だね。やっぱり、ああいう人は偉い人です。だもんで、それをね、大体のところをお話ししましょう。

それはねえ、こういう話なんだ。この前の戦争のときです。夫が、どこだったか、まあ遠い戦場でね、死ぬんです。戦死するんです。するとその奥さんがね、婦人がパリにいて、ちょうどその死んだときに夫が塹壕で倒れたところを見るんです。幻に、夢に見るんです。それで、夫が死んだことを知るんです。「あ、今死んだ」と。それで後でよく調べてみると、ちょうどその時刻に、夫は、その夫人が見たとおりの格好で——そばに数人の同僚の兵士がいたんだ、それですぐ介抱したんだけど——死んじゃったんだけど、その数人の兵士にも、後で会うんです。すると、同じ光景で、同じ顔の光景を、その婦人は見たんです。
ベルグソンは、ある大きな会議がありましてね、その会議に(略)出席してたときに、そういう精神感応だな、テレパシーの話になった。そのときあるフランスのね、名のある学者が、立派な学者が、これ医者なんですけども、その人にそういう話をしたんだね、ある人が。するとね、その医者はこう答えたっていうんです。確かにね、私はその話を信ずる、と。話した婦人は、立派な人格の持ち主で、嘘なんか決して言わない人だし、信じます、と。
だけど、困ったことが一つある。というのは、昔から夫でも、自分の身内でも、子どもでも、死んだ場合に、死んだ報せというものは実に数限りなく多いんだ。諸君だってそんなことあるでしょ。私もあります。そういう経験を持ってます。そういう経験は非常に多いんです。だから、それはみんな嘘じゃないんだろう。だけど、困ったことはだね、間違った経験も非常に多いってことです。たとえば、私が、自分のかみさんが死んだ夢を見るでしょ。でも、かみさん生きてるわね。(略)子どもが死んだ夢を見る。やっぱり子どもはぴんぴんしてる。そういうふうに無数にもまた、正しくない幻があるでしょ。
じゃあ、どうしてその、正しくない幻のほうをほっといて、(略)子どもが死んだっていう夢を見た、確かに子どもがそのときに死んだというふうに、正しい幻のほうだけ気をつけるのか。それが困るんです、と。

私はその婦人の話を信じたい。人格も信じたい。嘘をついてないってことを信じたい。恐らくそうだろう、と。だけども、そういうたくさんのもう一つの間違いがあるじゃないか、と。人間はいろんな夢を見ます。それでみんなその夢は、正しくないんです。間違いなんです。現実に照らし合わせてみればね。どうしてその間違いのほうは、ほっとくんです? たまたま偶然に当たったほうだけを、どうして諸君は取り上げなけりゃならないか。こう答えたんだそうです、その医者はね。

ベルグソンはそれを聞いてた、横で。そしたらそこに、もう一人若い女の人がいてね、その医者に「先生、先生のおっしゃることは、私はどうしても間違っていると思います。先生のおっしゃることは、非常に論理的に正しいけども、何か私は先生が間違ってると思います」と、こう言ったっていうんです。そのときにベルグソンが、やっぱりそばで聞いてましてね、私はその娘さんのほうが正しいと思ったっていうんです。
これはどういうことか、(略)講演でこういう説明をしてるんです。学者というものはね、どのくらい深く、自分の学問の方法っていうものにとらわれているかっていうことなんです。それはもう驚くべきほど、学者っていうものは、一流の学者ほど、立派な学者であるほどだね、自分の方法ってものを固く信じている。で、知らず知らずのうちに、その方法の中に入って、方法の虜になっているもんだ、と。だから、具体的ないろいろな現象、具体性ってもの、そういうものに目をつぶってしまうんだ、と。

今の場合でもよく考えてみたまえ。その医者はね、ある夫が戦死した夢を見て、という話だね、そういう話を聞くと、その話を次のように変えてしまう。その話は正しいか、正しくないか、ね。その婦人が、夫が死んだって夢を見たときに、確かに現実に夫は死んだか、間違いで夫は生きてたか、と。そういう問題にしてしまうっていうんです。

それは違う。その婦人はね、問題を話したんじゃないんです。その婦人は、自分の経験を話したんです。間違いか間違いじゃないかっていう、そこには問題はないんです。これは本当であるか、嘘であるかという問題はないんです。婦人にとってはないんです。婦人はただ、ある日寝ていると、まざまざと夫が倒れる様子を見たんです。そこで、数人の兵士がそれを取り巻いている様子を見て、その顔まで覚えてるんです。あんまりこれじゃ生々しい光景であるから、それを人に語ったんです。ありのまま、人に語ったんです。そういうことは、(略)たった一つのその夫人に起こった経験です。経験的事実だね。それを主観的だって言うんです。そんな馬鹿なことはないじゃないか。

人間っていうものは、経験する場合に主観的であるか客観的であるかなんてことは、そんなことを考えるような経験はちっとも[切実じゃない]。切実な経験というのはみんなそうです、これは自分の夢の中の経験であるか、あるいは本当に、これは客観的なものであるかなんてこと、考えてないですね。ほんとに切実な経験ってのは、いつでも、主観的でも客観的でもないんですね。直の経験だよね。それはこう、つねられて痛いっていう経験とおんなじです。痛いっていうのは主観的なことか、客観的なことか。どっちでもないじゃないか。本当に直接には、僕の心の中の経験じゃないか。それとおんなじですわね。

だから、その婦人はだね、確かに夫が倒れたっていうとこを見たんですよ。その、確かに見た、生々しい話を、確かに夫は倒れたか倒れなかったかという問題にすり替えてしまう。もしもすり替えればだよ、倒れた場合の数と、間違った場合の数とを比較しなきゃならんじゃないか。そうすりゃ間違った場合のほうが無限に多いでしょう。当たるほうは本当に少ないでしょう。そんなら、それはただの偶然じゃないか、こういうふうな結論が出るじゃないか。なぜそれが偶然だっていう結論が出るかっていうと、婦人の話をそっくりそのまま、婦人の経験ってものを、具体性ってものを信じないで、果たして夫は死んだか死なないかっていう抽象的問題に置き換えるから、そういう結果が起こるんだ、と、こう言う。

これ諸君まだ、なかなかこれはわからないかもしれない、こんな話では。これは非常に大きな哲学がありますからね、その底に、ベルグソンの。

 ベルグソンの話は、ここまでです。私はずいぶん前に本でこれを最初に読みましたが、実はそのときものすごく衝撃を受けました。なぜかと申しますと、実は私もまさにこの医者と同じような考えをしていたのです。言ってみれば、いわゆる悪しき「科学教」に毒されておりましてね。この医者とまったく同じような考えをしていて、一人悦に入っていたんです。

 今の小林秀雄さんのお話し、わかりましたか? あるご夫人が、夫が戦死した光景の鮮やかな夢というか、幻を見たわけです。そして、その後で、まさに幻に見た通りの状況で夫が亡くなったことを知って、それを誰かにお話ししたと、そういうことですね。そして、その医者というか、科学者はすぐにこう反応するわけです。「その御夫人が話したこととは、きっとその通りなんでしょう。でもね、ちょっと困ってしまうんですよ。確かにね、正夢というか、幻が当たることもあるでしょう。でも世間では、正夢とか当たった夢や幻だけを問題にして、なぜ当たってないことは問題にしないのでしょうか? 実際には当たってない夢や幻は、たくさんあるでしょう! 当たってないほうがずっとずっと多い。なぜそっちを問題にしないんでしょうか。それはおかしいでしょう」ってね。そういう視点ですよね。

 私も物理、数学、論理学を学び、またディベートに出会って、一つの現象に対してあらゆる可能性を考える、論理的思考を非常に厳しく訓練されました。一つのこういう主張を誰かが申し立てたとしよう。しかし、こういう可能性もあり、こういう可能性もある。とにかくあらゆる可能性があり得る。だから、どのような主張も鵜呑みにはできない。そういう考え方の訓練というものをずっと受けておりました。

 もちろん、それも確かに必要な考えではあるんです。たとえば人はいろんな噂話をしますし、聞きますね。人というのは、自分が好きな人の悪口を言われたときには、「いや、それは違うだろう」と思うし、自分が嫌いな人の悪口を聞いたときには、「やっぱりそうか」って思う。まあ、そんなもんですよね。人間というものには、バイアスというか、偏りが非常に生じやすいです。そういう偏りが、何らか生じているんじゃないかということを考えることは、やはり必要なことではあるのです。また、物事というのは、たとえそれが起こっているように見えたとしても、必ずしも自分に見えたように実際に物事が起こっているとは限りません。NHKスペシャル「錯覚」の番組にもあったように、我々が見ていると感じているものは、実は本当の意味で直接見ているわけではなくて、結局は我々が頭の中で作り上げているわけです。そういう表層的なところを含めて、可能性というものはもう挙げればキリがないぐらい、こうもあり得る、こうかもしれない、こうかもしれない……、無限にあるわけです。

 でも、そうしますとね、どうなるでしょうか。あらゆるものの相対化です。つまり、何でも鵜呑みにして絶対化するのではなく、物事を相対化するようになります。ある種の論理的思考です。この情報は、こうかもしれない、ああかもしれない。あらゆる可能性を考えて、決して鵜呑みにはしない。それが客観的態度であり、知的な態度だと思うようになるわけです。そして、「自分は、何て頭がいいんだろう」と自己満足するようになり、そうでない人に対して嘲笑的な態度を知らずして取るようになってしまいますが、それはともかく、この種の「論理的思考」をするようになると、「知的能力」が飛躍的に上がります。あらゆる可能性を考えるので、物事を考えるときに良くも悪くも非常に慎重になります。

 では、その先はどうなるでしょうか? その先が、本当に肝心なところなのです。本当に肝心なところで、いわゆるインテリゲンツィアのほとんどは、ここで止まります。単なる相対化だけで、止まる。相対化した時点で、物事の具体性は無視され、単なる可能性の一つに「格下げ」され、「論理学上」実質的に否定されます。または、「統計」という極めて恣意的な「まな板」に乗せられて、わかりやすい表層的な有意差がなければ、その存在を否定されます。

 相対化が、なぜ必要か。本来それは、あらゆる可能性を考えつつ、その対象・事象に迫真していくために必要です。あえて言えば、本当に何が起こっているのかを、「ありのままに近く想像する」「正しく想像する」ために必要なのです。それ以外ではありません。しかし、ほとんどの人は、そこにはいかずに、ただ相対化して自己満足してしまいます。あらゆる「可能性」だけを並べ立てて、無意味な比較をして、本当に肝心なことは何一つ行わない。

 本当はそこから先が最も重要なところです。そのときにキーワードになるのが、先ほどの、小林秀雄さんを通じたベルグソンの言葉です。「婦人の話をそっくりそのまま、婦人の経験ってものを、具体性ってものを信じないで、果たして夫は死んだか死なないかっていう抽象的問題に置き換えるから、そういう結果が起こるんだ」

 相対化の視点は、必要かもしれません。しかし相対化だけをどんどん推し進めますと、結局どこに行き着くのか? どこにも行き着かないんです。本当のところ何が起こったのかという、最も肝心な存在濃度がどんどん薄まります。そして薄まるうちに、何が本当に起こっているのか、その肝心なところがわからなくなります。抽象的な可能性がいたずらに、どれも同じような重さを持って迫ってくるだけになります。

 相対化の視点を獲得することは必要かもしれませんが、そのときに具体性まで失ってはならないのです。世界は、抽象ではなく、具体です。抽象化とは、単なる一つの切り口に過ぎませんから、限られた側面でしかありませんが、具体にはすべてがあります。だからこそ、取り扱いが極めてやっかいではありますが、単に抽象化してしまったら空虚な観念しか残りません。そこには何も存在しません。

 繰り返しますが、そもそも一体何のための相対化だったか。それは、物事の本質に近づいていくためです。ありのままに近づいて想像するために必要です。あくまでも、対象に近づいていく過程の一環として必要です。しかし、その結果として、その対象から、逆にどんどん遠くなってしまうということになってしまうとするならば、それはね……何かが間違っているということになるわけです。

 今の話、小林秀雄さんも「これ諸君まだ、なかなかこれはわからないかもしれない、こんな話では。これは非常に大きな哲学がありますからね、その底に、ベルグソンの」と言っていますが、いかがですか? わかりましたでしょうか?

 「単なる相対化」の何が間違っているか? ベルグソンの言う「置き換え」が、いかにして「科学的手法」において起こっているのか? 実はこれ、なかなかわからないんです。まあ、皆さんは私よりもずっと呑みこみがいいかもしれませんが、私は何度も聴いて、読んで、三十回目ぐらいに初めてだんだん染み込んできました。最初はね、なかなか受け付けないっていうか、一応話としてはわかるんだけれども、こう染み込んではこなかったんです。

 そうした中で、この若い女の人が言ったことというのは、すごく重要なんですね。「先生のおっしゃることは、非常に論理的に正しいけども、何か私は先生が間違っていると思います」という、この感覚ですね。医者の言ったことは、本当の論理というより、論理の一部であるところの「形式論理」に過ぎませんが、それでも一見論理的に正しそうに見えるわけです。だけども何かが違う。その何かということですよね。それが非常に重要なんです。それは何だったか?

 それは結局ベルグソンが、後で言っているように、この医者は、この話というものをね、無意識的に抽象化してしまっているわけです。抽象化というのは結局、一般化ですね。抽象化する、一般化するということが重要だというふうに思い込んでいる。単なる一つの具体例だけではなく、一般化できる法則性を見つけようとする。具体的な、「これはこうだった」という個別性の中に閉じこめられるのではなく、もっと広く普遍的な法則性を見つけようと考えるわけです。とにかく一般化しなければならない。一般化することが科学だというふうに、思い込んでいるわけです。

 ですから、そのご夫人の話は、科学者が聞くと、知らず知らずのうちにすり替えられます。どのようにかというと、結局その幻なり夢なりを見たときに、それが実際に起こっているか、起こっていないか、そういう問題にすり替えられるんです。でも、すり替えたと思っていないんですよ、普通の科学者は——まあ、私は科学者という言葉にかなりこだわりがあって、ほとんどの科学者の方を、「科学産業従事者」と呼んでおりますが。彼らは、処理していない生データには意味がない、という訓練をされてしまっています。彼らにとって「日常」の中にそのままある通常の生データというのは、バイアスの塊という位置づけであり、初めから問題外です。科学的に認められるデータというのは、いろいろなバイアスを排した特殊な条件下で得られるものであり、それを統計処理して初めて結果が出る。それをすることが科学的検証だと思い込んでいる。私もその中に、ずぶずぶとはまっていたわけです。

 抽象化すること、一般化することにあまりにも慣れている。まるで一般化して初めて真実が浮かび上がってくるかのように思い込んでいるので、ここはね、実は非常に大きな厚い壁なんです。私にとっても、非常に厚い壁でした。小林秀雄を読んでも、最初は、「うーん、どういうことなのかよくわからない、どうしてそういうことになる?」という感じだったんです。

 でも、ここで思い返したいのは、このご夫人は、ただこういうことが起きたということを、ただ話しただけです。それ以上でもそれ以下でもないということなんですね。このご夫人には何の問題もありません。しかし医者が、ご夫人が話したことを、それは正しいか、正しくないかという問題に置き換えていて、置き換えているということにも気がついていないということなんです。

 この後、小林秀雄さんの、科学についての話が始まります。最初に言いましたように、Scienceという言葉は、十九世紀までは「知」という意味であり、Philosophy(原義は「知の追求」)と同じ意味でした。Scienceが、今の「科学」という意味になったのは最近のことで、Scienceの本質的な意味は、本当の知を追求することでした。本当の知。本当の知とは、現象にありのままに近づいていくこと、迫っていくということです。世の中にはいろいろな現象がありますが、その現象にありのままに迫っていくこと。それがサイエンスなのです。

 そして、現在で言う「科学」は、この数百年の間ににわかに勃興したものです。そして、その「科学」というものは、この数百年の間、非常に発展しました。ですが、どのようにして発展をしていったのかというと、こういうことなんです。物事をありのままに見る、ありのままに近づいていくというのは、まあ言ってみれば無理なんです。世の中にはいろんなことが起こっていますから、非常に難しい。ですから、まずは限定をするんですね。限定をして、すごく狭めるわけです。非常に狭めて、まずはとっつきやすいところから始めましょうということなんです。

 とっつきやすいものと言えば、まずは「測れるもの」です。ですから、天文学や物理学とか、そういうふうに割と簡単に測れるようなものから科学は始まってきたわけです。その事情は、仕方がないことであり、それ自体には何の問題もないわけなんです。だってそうでしょ、最初はわかりやすいところから始めるしかないんですから。まずは限定して、「この狭い範囲から始めます」ということを、ちゃんと自覚し、わかっていれば何の問題もないんです。

 しかしながら、この方向でどんどん発達をしていくと、次第にその自覚がなくなってきて、倒錯します。科学は限定をしたところからしか出発できない、そこしか範囲にできないという、それをわかっていれば「健全」なことであったのですが、それに慣れてきて、それなりに目覚ましい成果が上がってくると、大きな慢心が始まったわけです。やむなく限定することで始まった、いわゆる科学的手法というものが、いかにも素晴らしい方法で、それが真理に近づいていく唯一の方法であるというふうに、まったくお門違いの錯覚に陥るようになった。もちろん本当の科学者は違いますよ。しかし、見方がまったく逆転し、倒錯したものになってしまっていることに気がつかないでいる、そういう「おめでたい人たち」がたくさんいるということなんです。そうなると、いわゆる科学的手法に乗っからないものについては、「科学的に証明されていないから、科学的ではない」、と。そして単なるニュアンス、イメージから「それは信頼できない」、というふうに、論理がまったくすり替わるようになってしまった。そして、論理がすり替わっていることに気がつかない、本末転倒なことになってしまったのです。

 今の手法というものが限定されたものに過ぎないっていうことを理解した上で、真実に肉薄しようとしている本物の科学者というのも、数は少ないけれど確かにいらっしゃいます。しかし、気がついていない人たちのほうがはるかに多いです。それはそうですよね。仕方がありません。小林秀雄さんもおっしゃっているように、これはとても難しい、ある種「高級」なことなんです。「高級」という言葉は、あまり使いたくないのですが、これは誰にでもすぐわかることではない、ということです。しかし、本当の科学者、本当のリアリティーに肉薄しようとしている方々は、今の「科学的手法」というものが、どれだけ限定されたものに過ぎないかということを、ちゃんとわかっています。

 後で詳しく申し上げるつもりですが、ホメオパシーは一切の抽象化をしません。具体性を何一つ失わず、具体性の平面上だけを推移します。プルービングと臨床、ホメオパシーはこれだけです。「健康な人に投与して、ある症状を起こせる物は、その症状を持っている人に投与すると治 癒することができる」。これがホメオパシーです。「健康な人にある物質を投与し て、何が起こるのかを見る」、完全に、具体平面上ですね。そして、「似た症状を持つ人にその物質を投与して治癒するかを観察する」、これも完全に具体平面上です。何一つ、抽象化する作業がありません。

 時間になってきましたので、第一部の話はここで終わりたいと思います。第二部で松本先生から、「系の限定」など、いろいろなお話をうかがって、第三部ではゆっくりと対談的にお話をしていきたいと思います。第一部のまとめとしては、(1)まずは不思議なもの、今現在理解できないものに対して、どのような態度で臨むのが本当に正しいのか、それを改めて問い直さなければならない。まるで自分が知的であることの証明であるかのように錯覚して嘲笑する人もいますが、単なる嘲笑には何の意味もなく、くだらないっていうこと。それから、(2)何でもすぐに抽象化し、一般化する、それは確かに必要なことでもありますが、ただ抽象化で終わったのでは、物事には近づけないということ。そして、(3)科学というものは、物事を限定し、系を限定して初めて発展できたんだけれども、系の限定をしているということを忘れたら何にもならない、本当の現実にはそれ以上は決して近づけないということ、ですね。この三点をまず、まとめとして挙げておきたいと思います。では、松本先生、お願いいたします。