例えば、ちょっと今あんまりいい例でないことしか思い浮かばないんですが、ある男性が電車に乗っているとしますね。目の前にとても魅力的な女性がいて、もうすごく電車の中が混んできて、そうするとだんだん存在濃度が低くなってくる(笑)わけですね。だんだんだんだん、自分の中でいろんな妄想、というよりも、衝動が広がってきたりして、自分自身が「一如」じゃなくなってくる訳ですね。で、ある種だんだん分裂してくる訳です。分裂すると当然、濃度が低くなる訳です。もちろんそんなにすごい意味での分裂を言っている訳じゃなくて、自分が100%そこにいてね、ただもう毅然として、自分の全存在がこうでしかあり得ないような形でそこにいるっていうのでは全然ない状態になることを言っています。もうとにかくあれこれね、宙に浮いているような、そういうふうになっていったりする訳です。

今言いましたけどね、100%そこにあるっていうのは、全偶然と必然が「一如」になってそこにいるということでもあるんです。そうでしかあり得ない、それ以外あり得ないような形としてそこにいる、ということなんですね。これはまたそのうちお話をしていきたいと思います。

Q:今、全存在かけて生きているか、100%の濃度で生きているか、その時一瞬一瞬を生きているか、一瞬一瞬死んでいるかって言われてましたね。それから、先ほどカントの「格律」っていう言葉を引用されましたよね。さっきハイゼンベルグさんが、ナチスのもとで彼等に捕まって、そこでどんな状況でもここに留まって、自分の信念通してがんばられたお話があったじゃないですか。そういう状態は100%じゃないのかなと。

非常にすばらしい理解だなと思います。そうだと思います。100%でもいろんなレベルがあるっていうふうに言いましたけどね。そうです、いろんなレベルがあるんです。磨き抜かれた100%もあれば、生の100%もあるんです。先ほど、いい例を言われましたよね。本当に愛しきっている時、100%になるんじゃないか。それはね、その通りです。またその愛するというのにも、いろんなレベルがある訳です。どういうふうな意味で愛するのかっていうこともあります。そうですね、磨き抜くことも、実はね、このいわゆる合理・非合理というか、宇宙的合理、この中でだんだん磨き抜かれていく訳ですね。いろんなことを考えて、こうなのかああなのか、ということをずっと考えて、だんだん磨き抜かれていくんです。そしてね、磨き抜かれていくということはどういうことかっていうと、漠然と埋もれていた自分自身の姿と言うものが、どんどん明らかな形で立ち上がってくることでもあるんです。本当の自分自身というのは、どこかにある訳ではなくて、今ここにある訳ですけれども、いろんな雲がたくさん掛かっているんですね。そしてね、磨き抜かれていけばいくほど、だんだんそれがね、非常に明らかな形で立ち上がってくる訳なんです。

その、磨き抜いていくある種の篩(ふるい)というのは「合理の篩」で、そして本当にそうなのかどうかということは、この「隙間」によって判定される。少し分かりにくいかも知れません。篩そのものは「合理の篩」、そしてね、その篩に掛けられて、どうなるっていうことは、この隙間っていうのは、全感覚というか、それによって直接的・直覚的に洞察される。今しているのはちょっと先の話なので、少し分かりにくいかも知れません。そうですね、でも先ほどの例はとてもすばらしいと思います。

そうですね、今「本当の自分」と言いました。よく「ありのまま」という言葉がありますよね。「ありのままでいいんだ」と。この「ありのままでいいんだ」っていう言葉にもピンからキリまであって、その「ありのままでいい」っていう言葉が一番、つまらなく理解されると、要するに何も努力しなくていいんだ、もうとにかく自分がやりたい放題、もう何でもいいんだと、そんなことになってしまいますよね。これは、本当は「ありのまま」ではないんです。「ありのまま」ということを一番都合よく、つまらなく取っているだけであって。

「ありのまま」でいいっていうのはね、本当はどういうことかっていうと、まず第一の意味というのは、現在の自分から出発するしかない、っていうことなんですね。現実の自分とまるっきりかけ離れた所から出発することはできない。例えば、私はこういう人間でありたい、と思うとしますね。もちろんそういう人間でありたいって思うことはね、それははなはだ結構なことなんです。それがいけないという訳ではなくて、問題なのは、現在のありのままの姿、現実から出発することなく、あたかも現在をこうありたいという状態であるが如く勝手に都合良く錯覚して、そこから出発しようとすることなんです。もちろんそれは実際の姿ではありませんから、ことごとく現実に引き戻されます。そんなことは通じません。

そしてそれはね、理想を持つということとは全然違うことなんです。それはある種の驕りから来ているだけであって、本当に謙虚にね、今いる所から出発している訳ではないんです。でも、初めから違う所から出発しようとしてますから、当然必ず引き戻されます。

そしてね、まあ「ありのままでいい」っていうのはいろんな意味があるんですけれども、また同時にね、その本当の自分、磨き抜かれた自分というのは、実はありのままの自分の中にあるっていうことなんですね。どこか別にある訳じゃなくて、その「ありのまま」から出発して、それを磨き抜いて行ったところに、自分の最終的な本来の自己っていうものがある。他には本来の自己っていうものは存在しない。どこか別にある訳ではないんです。

そして、それはただ単につまらない意味での今の状態を指しているわけじゃないんですね。だから「ありのままでいい」っていうのは、今のまんま何も努力をしなくてもいいっていうことではなくて、自分のありのままの、本当の現在の中に、磨き抜いた自分の姿というものを実現させようということなんですね。他にはない。それは自分の場所にしか成立し得ないものですからね。まあ後で今の話にまた、どこかで戻ってくると…

Q:ちょっといいですか、全生命を懸けて生きているっていうことと、この瞬間に今自分は死んでもいいっていう思いの時は、イコールということにならないんでしょう。

死んでもいいというのは例えばどういう意味においてでしょうか。

Q:これはもう、これ以上のことない、というぐらい自分がエネルギーを集中できるというかそういう時…。

ええ、先ほど100%と言ってもいろんなレベルがあります、と申し上げました。確かにそれも100%ではあります。でもおそらくはね、それは割と、生の形のとてもエネルギッシュな、そういうもの、多少過剰気味なものかもしれません。恐らくまた磨き抜かれていくと、死んでもいいとも別に思わないと思います。なぜかと言うと、死も生も同じものなので、わざわざ死んでもいいというふうに考える必要もないからです。ただね、とても充実している…漲(みなぎ)っている時ですね、漲っている時というのは、死んでもいいと言うふうな人間的な感覚に捕われる時も多々あるというふうに思います。

ええとそうですね、今日は一応「虚数」のところまでは多少お話をして、終わりたいというふうに思っております。「虚数」っていうのはね、英語では何て言うかというと、imaginary numberなんです。面白いですね、imaginary、imagineって、要するに「空想する」っていうことですよね。空想的な数、つまり、この世に存在しない数、空想上の産物。つまり、この実世界には存在しない。日本語は面白いですよね、これを「虚数」って訳したりするんですよね。名前が凄いですよね。「虚数」。

Q:「空数」でもいいですよね。

「空想数」とかね。

Q:だから先生「i」なんですね。

そうなんです。だから「i」なんです。でもまた同時にね、まさにこのimaginaryという所に、大きな鍵もあるんです。最初はね、普通の感じで、ただ空想上の産物なんだなという感じで考えます。それは一応そうなんですけれども、この深い意味がだんだん分かってくると、このimaginaryという言葉から受けるその感覚もね、すごく変わってくるんです。変わってきます。この空想…空想、想像とは一体何なのか。そういうことがね、何となくぼんやりと考えているということとは全然違うリアリティを持って迫ってきます。

 

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