私の親は鉄鋼の会社をやっておりましてね、高校は大学とつながっていましたので試験はなかった訳ですけれども、当時、特に何をやりたいっていう気持ちはなかったんです。

ただ親が将来会社を経営していく時に、単なる経済学部というよりも、当時管理工学というのが、主な取引先であった新日鉄に管理部というのができたばっかりだったので、とにかく工学部に行きなさい、と。そこで管理工学をやったら、経済と工学を足して2で割ったことをやるんだ。とまあそういう話でした。

じゃあそうですかということで、そこに行ったわけです。その当時はまあ将来会社を継ぐんだろうという位にしか、思っていませんでした。

そして大学に入ってから、そこから私の人生というのは非常に大きな展開をしました。とても大きな展開がありました。第一の出会いというものは、数学・物理との出会い。これはまさに出会いと呼べるものであって、私はそれまでは歴史が大好きで、また哲学的なことが大好きで、文学的なことが大好きで、そういったものばかり読んでいたり考えていたりしました。

数学、最初は解析と言う微分積分の意味について考える学問でした。最初の授業で、“無限とはいったい何か?”、後で「無限」についてまた考えますけど、
“無限とは何か?”
“連続とは何か?”
“極限とは何か?”
っていうまあそういう話を聞いて、これは面白い!こんなに面白い話は今まで聞いたことがないと思ったわけです。

それまでその私が何となくぼんやりと頭の中で空想的なイメージで感覚的にとらえていたこと、それまで文学的な世界の中にしかないと思っていたようなものすごい大きなファンタジーのようなもの、そういう世界が数学という極めて厳密な論理の上に立っているものからウワーと広がって来て、もう非常にびっくりしたんです。本当にこんなに面白い話があるだろうかというぐらい。

それから、数学のいろんな本を読みました。文科系の本ももちろん面白いわけですが、今でも数学の本を読みますと、何かワクワクします。

この話をしたら、変人ではないかと言われたんですけど、数学の本を読むとエクスタシーを感じるような感じでね、本当に何かイマジネーションがワーっと広がっていくんです。それが第一の出会いです。

それから物理学との出会いですね。数学との出会いが第一で、第二に物理学との出会い。で、物理学もやはり高校までは本当に嫌な学問で、授業中ずっと寝てばかりいて、成績も一番悪い方だったんです。

ちょうどそうですね、このシリーズの4回目にやるんですけど、「部分と全体」という本があるんです。これは20世紀に物理学の大きな革命、量子力学を作った一人、ハイゼンベルグという人の自伝的な本なんです。

その自伝的な本を、面白いよというふうに先輩に勧められて読んだら、もう虜になりましてね、これもね、何回読んだか分からない。パラパラと30分くらい拾い読みをしたことを入れると多分1000回は超えているだろうと思うんですが、多分4〜500回くらいは通読している、そういう本なんです。

私にとっては、とても大きな本なんですけれど、この中には科学とはいったいなんなのか、哲学とは何なのか、人間がとるべき本質的な態度というものはどういうものなのか、についての素晴らしい実存的な考察と歩みに満ち満ちています。

科学者の本質的な責任ですとか、量子力学のいろんな深く哲学的なこと、いろんなことが、 本当にあちこちにちりばめられておりましてね、この本から非常にたくさんの教訓を受けました。

これは単なる物理学の本ではなくて、私の人間形成にとって、基本的な世界観・人生観にとって、とても大きな本だと言うことができます。本当に随分と読みました。

それから第三の出会いですけれども、この間少しお話ししたディベートですね。私は英語が中学校の頃からとても好きで、いろんな弁論大会に出たりとか、いろんなことをしておりましたけれども、大学に入ってESSに入りましてね、そこでディベートをやったということ。これが私にとってまた極めて大きく人生を変えるような出来事だったですね。

それまでは自分は自分の意見というものがあるというふうに勝手に思っていた訳ですけれども、自分が思っていたような意味での意見と言うものは、とても意見という名前に値しない。もう最初に単なる結論ありきと言うか、感情ありきというか、自分の意見と思っているようなことっていうのは、せいぜいどこかの週刊誌でちょっと目にしたとか、自分の親がこう言っていたとか、友達がこう言っていた程度のことが何も検証されずに、ただそれに都合のいいこと、都合のいい情報だけがその周りをぐるぐるぐるぐる回って大きくなって、自分の意見だと言うふうに思い込んでいるだけのものであって、そんなもの意見というふうに呼べるようなものでは全くないということ。

また自分の考える筋道自体というもの、論理というものを徹底的に考え抜くこと、いったい論理とはどういうものなのかということも考え抜いて、そしていろんな思考の盲点とか、穴とか、落とし穴とかですね、そういったものについてずいぶんと考えました。

また自分の思考の精度というものも、ディベートによって随分と上がっただけではなく、この間お話ししたように、死刑に関するディベートのように、表面的にはまるで正反対の結論のように見えても、それは正反対の考えではなくて、実は根深いところでは全く同じところから出発しているものである。そういうことがしばしばあるっていうことを学んだ非常に大きな機会であった訳です。

 

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