このセミナーの第1回目には、「科学・哲学・宗教・芸術の統合」という、かなり大それた題を付けております。今、大それたとは言いましたけれども、いつも考えているのはこのようなことです。科学とはいったい何なのか。哲学とはいったい何なのか。宗教というのはいったい何か。芸術とは何なのか。

私が大学で研究者をしていた頃、科学について、いろんな人たちがいろんなことを言っていましたけれども、その中でだんだんと、いわゆる「科学者」と言われる人というのは実は全然「科学的」じゃないと思わざるを得なくなってきた訳です。彼等は「科学者」ではなくて、「科学産業従事者」である。科学という産業で働いている人たちであって、考え方そのものはちっとも「科学的」ではない…ということが、だんだんはっきりと分かってきた訳なんです。

科学っていったい何でしょうか。科学って何かというと、すごくシンプルなことです。科学とは何かというと、単純に、まず何が本当に現象として起こっているのか、これを観測・観察することです。何が本当に起こっているのか。そして、それが本当に起こっているのであれば、それはどのように起こっているのか。そしてなぜ起こっているのか…という方向に進むことです。

「科学者(科学産業従事者)」がしばしば、口にする言葉があります。
「そういうことは『科学的』にはあり得ない、そういうことは起きえない」
というふうな言葉です。これは極めて奇妙なことだと思いました。そういうことがあるはずがない、と決め付けます。そして、それが起こっているという人たちの言っていることをただ無視する訳ですね。

そういうことは起こりえない。「科学的」には起こりえない。とにかくそれは「非科学的」である。これはとても奇妙だと思いました。起こるはずがないというのは、科学ではなくて、ある種の勝手な信念です。起こるはずがないと自分が思いたいことであって、本当にそれが起こっているかどうかっていうこととはまったく無関係な、勝手な信念です。そして、それは「科学的」に証明されていない、という言葉をよく使ったりします。

「科学的」に証明されていないという言葉には大きなトリックがあります。まだ科学ではなぜそれが起こるのか分かっていない、証明されていない。この言葉自体は必ずしも誤りではありません。我々の知識は残念ながらまだ現象に追いついてない、という声明である限りにおいては。しかし「『科学的』に証明されていない」という言葉は、一人歩きをして、イメージとしては、そういう現象と言うものはあり得ないことであるというようなイメージを与える。科学というのは、何が起こっているのか。本当には、何が起こっているのか。それを確かめるために、実験したりしている訳ですね。全てがあらかじめ分かっていて、それは起こるはずがない、などと言い張るのだったら、そもそも実験なんかする必要がありません。

そして非常に奇妙なことに、そんなことがあるはずがないって言う言葉は、まさに、いわゆる「科学者(科学産業従事者)」が、科学と最も対極にあると思っている「宗教」にそっくりです。宗教といっても彼等の考えているところの「宗教」にすぎませんが。本当の宗教というのはもっと素晴らしいものかもしれませんが、ともかくそんなものは「宗教」なんだと、要するに単なるめくらになって信じているからそんなふうに思い込んでいるだけだ、という意味での「宗教」ですね。

本当に奇妙なのは、まさにその人たちの態度そのものが、彼等が言っているところの「宗教的」な態度であることです。つまり何が本当に真実であるのかということを、決して自分自身の目で見ようともせずに、自分の勝手な、現在捕われている世界観の中で、解釈できない・理解できないことは、全て誤っている、起こっていない、あり得ないというふうに思いたい、信じ込みたい、そういう態度である。つまりそれはどういう態度かというと、開いていない。開かれていない。閉じている。自分自身の中でちゃんとその物事に対して目を開いて見る勇気がなくて、何かが恐い。「非科学的」だと言っているだけで、本当にそれが「非科学的」なのか、やってみればすぐ分かることなんですけどね。やりもしないんです。絶対やらないんですね。自分の勝手な世界観が壊れることが怖い。だからありえない、と強弁するだけです。それはありえない、のではなく、その人がそれを理解したくない、という感情に過ぎません。感情から出発していますから、実は理屈ではない、感情によって既に決まっている勝手な結論に、ツジツマをあわせるために理屈が使われているだけです。そんなことは「非科学的」だから、やってみるまでもない。明らかだ、という訳です。本当は、明らかなんだったらやってみればいいんですけどね。それはやらない。

この間、とっても面白い話があったんです。この話は愉快でたまらないんです。学校の授業のあと、土曜日の夜に、テレビをつけましたら、明石家さんまの番組をやっていたんです。何という名前の番組でしょうか、いろんな若い女の子たちが周りにいて、その若い女の子たちの彼氏とどうしたとか、そんな番組がありますよね。そしてその日は「夫が最も馬鹿に見えた時」という特集だったんです。傑作でした。

あるとてもきれいな若い結婚したばかりの奥さんが出てきましてね、慶応大学出身だっていうんですけれど、そのご主人が京都大学出身でね、大学受験の時の家庭教師で、その後交際して結婚したと言うことなんです。その二人が新婚旅行に行って、夜道を歩いていたんですね。そしたら満月が出ていましてね、彼女はきれいだなと思ったんです。それでそのご主人に、「見て見て、満月がきれいだよ」って言ったんです。そしたら彼がね、「馬鹿だな、この間、ちゃんと月の数え方は教えただろ。この間の時から数えたら今日は何日目だから、今日は新月なんだ。だから、空には、絶対月は出ていない。」という訳です。「だって満月だよ」って言っているのに、「お前あれほど教えたのに、まだ分からないか!」っていうんです。「今日は新月の日なんだ!」って。「だって見てよ。あの大きな満月は月じゃないの?!」と言っても、「見るまでもない、そんなことありえないから。今日は新月なんだ!!!」と言うんです。いくら「見てよ!」と言っても見ようとしないんです。ただちょっとだけ上を見るだけで済むんですよ。実験なんかする必要もなくて、ちょっとだけ見上げればいいんだけど、絶対見ない。そういうことはあり得ない。

これはね、素晴らしい例だと思いました。「夫が最も馬鹿に見えた時」(笑)・・・いや、こんなに素敵な例を今まで聞いたことがないので、この番組はありがたいなーと思ったんですけどね。本当の科学は素晴らしいものなんですけど、「科学教」というどうにもならない愚かな「新興宗教」について話をするときは、毎回この話をしているんです。そのご主人はいわゆる理科系でね、IBMの技術者なんです。エンジニアですね。

まあそういうことでね、結局、我々は常に、ありのままの事実に対して、いつも開いていなきゃいけないんです。当たり前のことなんですけどね。どのようなことがあってもね、常に事実に目を開いている。自分自身が信じたい、信じたくないっていうことに関係なく。目を開いているっていうことは、本当はとても勇気がいることなんです。本当は非常にシンプルなことなんだけど、とても勇気がいることなんです。なぜならば、自分自身が今まで信じ込んでいたところの世界観、人生観が粉々に壊れてしまうかもしれないからです。

ちょうど先ほどの、絶対に満月を見ようともしなかった人。あの例は笑えますけれども、本当は笑えない話なんです。あれは月の話だから笑えるんですけど、私たちが毎日やっていることも、実は全然変わらないんです。どうしても自分は見たくないことっていうのはね、見ないようになっているんですね。見ないように我々はなっている。それがある種の安全装置でもあるわけです。つまり自分の今までの限界を超える事態に対して、自分が壊れないように発動するある種の安全装置ですね。それはやむをえないことでもあり、ある意味で素晴らしいことである。また同時に、我々をありのままから離れさせ、自分の閉じた世界観の中に閉じ込めてしまう原動力になってしまうものでもあります。

 

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