講義がはじまる。

「識」とは、認識機能を意味する語である。「心」(citta)、また、「意」(manas)という語も同義語である。[略]「識」は、[五つの器官]および思考力に媒介された六種の認識機能であり、「意」はそれに伴う自我意識(一部の潜在意識を含む、末那識)をあらわし、「心」は通常の認識機能の根底にある深層意識(アーラヤ識)をあらわすが、心も意も認識機能の一部であり、広義の「識」概念に包括される。

ところで、この六種の認識機能と自我意識は、深層意識に対して「現勢的な識」とよばれる。

 この“現勢的な識”は、(通常われわれが考えているように)外界に存在する対象を認識するのではないのである(それとは反対なのだ)。

この「現勢的な識」というのは、この前五識、それから意識、それから自我意識であるところの末那識です。ここでは、これらはまず何らか認識すべき対象があるから、それを認識する、という順番のものではない。それとは反対であるというんです。

識が機能するということは、識が対象の形象を自らの内部に知覚することにほかならないが、対象の形象も、それを知覚する能力も、潜勢的なかたちで潜在意識のなかに存しており、それが現勢化するときに認識作用が行なわれるのである。したがって、真にあるのは、表象をもって生じている自らを知る識の作用のみであって、(通常考えられるように)外界の対象とそれを認識する自己とがあるのではないのだ。

つまり、いうなれば、そこに花があって目がそれを見るのではなく、深層意識の中に花という形象が[もともと]潜在的に存在しており、同時にそれを知覚する能力もまた存在していて、それが現勢化する[何らかの理由によって、何らかのきっかけによって、とにかく現勢化する]ときに花の認識作用がおこなわれるのである。

今、あえて「何らかの理由によって」というふうに申しました。「何らかの理由によって」ってあえて言ったのは、通常の「健全」な状態においては、対象が、いわゆる存在して、ここにその対象が、実際に・・・まあ実際にっていうのもなかなか難しいですけども・・・いわゆる「実際に存在」することによって「現勢化する」、対象によって刺激を受けてと申しますか、「対象が存在することによって、現勢化する」、もしくはその現勢化にはそれに対応する「実在が伴う」ということが「通常」起こる。けれども必ずしも、まあしつこいようですけれども、対象が伴わなければ絶対に現勢化しないというわけではないということなんです。

通常はそうなることが「健全・健康的な」状態ではあるけれども、現勢化するための絶対的な条件、絶対的な前提ではない。対象が「実際に」存在しなければ絶対に「現勢化」しないというわけではなくて、「何らかの理由」によって現勢化することもあるというわけです。

そうして、現勢的な識は機能すると同時にその余習を深層意識の中にのこす。深層意識とは、無限の過去からの認識・経験(記憶)の余習がたくわえられている蔵[アーラヤ]で、その余習は、未来における作用の潜勢力として成熟し、機が至れば、つまり縁が熟すれば現勢化する。現勢化した識は機能した瞬間に滅して次の瞬間の識と交替し、こうして現勢と潜勢の二重構造を持ちつつ生滅する識が、一つの流れを形成する。だから、認識の主体としての自己(つまり、知るもの)も、客体としての物質的存在(知られるもの)も、ともに「識の流れ」の上に仮構されたものにすぎない

「仮構される」というのは、仮にそのように「構築」されているのに過ぎない、あくまでも仮の存在であるということですね。最終的な実在ではない。

実在しない自己を仮構するのは自我意識である。無限の過去からくり返された自我の仮構の余習(我執習気)が深層意識の中に保持され、それが成熟して現勢化したものが自我意識であるが、それは深層意識の流れを自我と見なす思惟を本質としている。

自我意識に伴われることによって、六種の機能は、自己が器官を媒介として自我の外にある対象を認識するという性格を帯びることになる。識の上にあらわれた表象は、知覚器官によって把捉され、意識によって思惟される対象として客体化される。

表象は個別的なものであるが、意識はそれを思惟によって類化し、それに名称をあたえる。対象をことばによって表示する慣習が、名称とその表示対象を生ずる潜勢力(名言習気)を潜在意識の中につちかっているので、個別的な表象に対して「壷」「布」などの語が適用され、同時に表象は「壷」「布」などという語に対応する実在と見なされるのである。

語によって表わされるもの、概念が指示するものは、思惟によって「仮構されたもの」、「想像されたもの」であって、真実には識の上にあらわれた[単なる]表象にほかならない。「壷」「布」などが外界に実在すると考えるのは、あたかも魔術師が木片に咒文をかけて現わし出した幻の象や馬を実在と思いこむようなものである。

要するに——、唯識学説が主張し立証しようとしているのは、「概念の虚妄性」ということであり、その概念の虚妄性は、無限の過去からの経験の余習に根ざした思惟に由来するというのである。

「概念の虚妄性」ですね。この「概念」ということについて、少し話しましょう。我々は、何らか「概念」というものをどうしても作ります。「概念」「観念」というものを持ってない人は誰もいません。では、なぜ我々は「概念」というものを持ってしまうのかということなんです。まあこれはいろんな、どこから始まったのかということには、いろんな説明の仕方があります。

 

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