では、87ページを開いてください。
それからあの、今日はあまり時間がないので、少し飛ばしながらやろうというふうに先ほどまで思っておりましたけれども、やはりそれは、あまり意味がないので止めました。まあどこまで行けるか分かりませんけれども、ひと通り全部やろうとすると、結局もう全部すっ飛ばしてしまって、やらない方が良かったということになってしまうかもしれないので。結局のところは、一番最初から、最後のことに関係することがどんどんもちろん出てきますから、まあゆっくりとやりたいと思います。
夢をみている人は、自分の意識にあらわれる対象が実際には存在しないということを知らない。世間の人々の日常経験もおなじことである。かれらは外界の対象が存在するという誤った観念を過去世からくり返してきているために、その潜在余力の眠りに深くおちいり、対象が実際には存在しないことを理解しない。
しかしながら、その潜在余力と対抗するもの、すなわち、表象をもたない、いうなれば『超世間』的な識を得て目ざめたときには、その超世間的識につづいて得られる清浄な世間的知識によって、対象が実在しないことを明らかに悟るのである。
このヴァスバンドゥの答論は、唯識哲学が経験的認識の夢からさめること、超世間的な識と清浄な世間的知識を得ることを根本的な課題としていることを明示している。そうしてそれこそが仏陀の教示する『涅槃の世界』でなければならない。これが唯識の指し示す理想の認識世界である。
経験的認識がすべての人に共通しているということは、必ずしもその認識が正しいということを意味するものではない。過去世における同質の『業』によって、みな同じ夢をみているに過ぎないのである。
つまり、同じような凸凹を持っている人は、同じような見え方しかできないということです。先ほど言った理由によりまして、同じようなあり方をしている人は同じようなdelusionしか持てない。
この夢からさめることが仏陀のいう『覚』であり、『菩提』であるということだ。
「——さてそこで、その夢からさめるためには、その夢の根源を明らかにしなければならぬ。ひとつ、この誤れる夢と業の問題について追求してみよう。[略]」
「その根源はアーラヤ識にある」
と老師の講義は次ぎの日から第二段階に入った。アーラヤ識のアーラヤという語は、漢訳経論ではその音をそのまま写して、阿頼耶、阿黎耶、阿梨耶などと書き表わしている。一般には玄奘[孫悟空と一緒にいた人ですね]の訳語である阿頼耶が用いられている。
この語はアーリーという動詞に由来するものであるが、この動詞は、結び付く、住む、横たわる、執着するというような意味をあらわすので、アーラヤには、結合、場所、住所、基底、執着というような意味があると見られる。一般には「住居」「場所」「蔵」などの意味に解釈される。たとえば、雪山[ヒマーラヤ]というのは、「雪の蔵」[ヒマのアーラヤ、雪のアーラヤ]である。そこから、アーラヤ識を「蔵識」と訳し、ときには「宅識」などとも訳す。
住所、場所、蔵とされるのは、そこに経験世界の一切諸法が「種子」として存在するからである。「種子」とは、あとで述べるが、あたかも植物の種から芽・茎などがあらわれ出るように、客観世界の一切諸法を生ずる原因が心中に潜在しているものと見て、それを種子とよんだのである。そのように一切諸法の種子を内蔵しているからアーラヤ識のことを「一切種子識」ともいう。
つまり、過去世から現在にいたるまでのあらゆる経験があとに残した余力が、潜在印象として貯蔵されているのである。表象はその潜在的な経験の余力が現勢的になったときにあらわれるのであって、外界の対象の認識によって形成されるのではないというのがさきに述べた唯識説であるが、要するにそれは、経験的認識こそが、すべての人間を動かす動力因「業」であることをあきらかにし、この、仏教が解決しようとする最大のテーマである「業」というものの正体を、人間の心の深奥に発見した論理であるということだ。そうして、その経験的認識の世界をいかに乗り越えるかということが仏法というものにほかならない。
「成唯識論」では、アーラヤに三つの作用を見ている。
(一)、能蔵、(二)、所蔵、(三)、執蔵、である。(一)[能蔵]は、アーラヤ識が諸法を種子の形において内蔵し、そこに諸法を結びつけていること、
(二)[所蔵]は、アーラヤ識は諸法から熏習されるものとして、諸法に蔵され結びつけられること、
(三)[執蔵]は、アーラヤ識が、我執のはたらきをするマナ識(第七識)によって、我[自我]として執着されることである。(一)[能蔵]と(二)[所蔵]は結合・場所という語義にもとづき、(三)[執蔵]は、執着の意味によっている。ただし、(三)の執蔵は、アーラヤ識自身が執着するのではなく、反対に、マナ識により我として執着される[マナ識によって、その第八識を我として執着しようとする、執着される]のである。アーラヤ識は、一切種子識とよばれるほかに…
他にも言い方はある、と。
そうですね、90ページ以降の、どのようなところからアーラヤ識を創設するようになったのかというところは、ちょっと飛ばします。
ここでは、どのようなことから、どのような経験からアーラヤ識というものが存在しないと辻褄が合わないと言えるのか、またアーラヤ識が存在すると仮定せざるを得なくなったのか、ということが書かれています。言わば、アーラヤ識の存在証明のようなものです。
まあ、キリスト教で言う「神の存在証明」と似ています。キリスト教で言う「神の存在証明」、例えば有名なトマス・アキナスの神の証明というものは、いわゆる我々が通常で言うところの「証明」という概念とはずいぶんと違う、実存的な存在証明です。これが「証明」なの? というような種類の証明というか「証(あかし)」です。むしろ通常の概念でいえば、むしろ「信仰告白」に近いようなものです。
その中に自分が神を見出す様々なきっかけ、このようなことを考え、このようなことを見ていると、神様の実在というものを感じざるを得ない、そういうものをありありと感じる…と言うようなことです。本当はよくよく考えると、「神の証明」というものは、それ以外ではありえない本質的な証明というか証なのですが、証明という言葉から我々は、どうしても、狭い意味での合理的証明、例えば背中律を前提としたいわゆるアリバイ証明、現場不在証明のようなイメージしか思い浮かびません。
それはともかく、ヨガの修行によって、いろんなことが起こるわけですけれども、なぜこのヨガの修行においてこういうふうな事態が起こるのか。これはまたなぜなのか、ということを考えていく時に、このようなアーラヤ識というものが存在しないということはあり得ない。まあそのようにして、このアーラヤ識のある種の発見になっていったわけですけれども。まあそれはちょっと置いておきます。