166ページに行きます。真ん中ですね、

「『第七マナ識は汚れたマナスとよばれる自我意識だということでありました。そうしてそれは自己を中心として考えるためだということでありましたが、自己を中心として考えることが、どうして汚れた識になるのでありましょうか? それは自己が汚れているからでございますか? とすると、自己はどうして、いつから汚れているのでありましょうか? ただ単に、無始のむかしから汚れているから汚れているのだというのではなっとくがいきません。どうして自己を中心に考えることが汚れた識になるのか、』」教えて頂きたいと。

実はここからまた結構長いんです。自己が自己に執着するということが、なぜいわゆる「汚れた」っていうことになるのかということ。そこの間には、いろんな存在形態についてのいろんな話があるわけなんですけれども。この部分は難しい話になりますので、皆さんにある程度読みすすめていただいてからにします。ちょっと飛ばしますが、この「アーラヤ識」ですね。「前五識」があり、「意識」があり、「末那識」があり、そして「アーラヤ識」があります。このアーラヤ識はね、一切の汚れがない識なんですけれども、同時に、どのようなものもありのまま全て受け取る識でもあります。

そして、いわゆる「汚れた識」と言われるのが「末那識」です。ただ「汚れた識」というよりは、「色がある識」というふうに言った方がいいと思います。よく人を「色眼鏡で見る」と言いますよね。そういう時に「色」っていうふうに使います。そのように考えていただきたいと思います。そして、先ほど申し上げました「そのまま受け取る」ということがどういうことかと言いますと、アーラヤ識はこの「あらゆる色」をそのまま受け取るわけですから、そうすると当然ながら、ここは「いろんな色にまみれている識」でもあるわけですよね。でも先ほど「一切の色がない」とも言いました。一切の汚れがない、かつ一切の汚れをそのまま受け取る。言語的にはとても矛盾してますよね。一方では「一切の汚れがない」と言い、また一方では「全ての汚れを持っている」とも言うわけです。この矛盾はどのようにして解くことができるでしょうか。

生徒さん

先生がおっしゃるには、物事に対する認識の仕方というのが五感、意識、それからどうしても自己中心的な末那識が働くと。で、それらは自然とアーラヤ識の方に流れていくと。しかしアーラヤ識は一方において一切汚れがない。それは、我々がいわゆる「全一的な存在」で支えられているが故に、そこにいわゆる「般若の知恵」が働いて、「一切の汚れがない」というふうに、まあ両方のことを解釈ができるんじゃないかと思いますけれども。

はい。ええ、そうですね。いろんなふうに考えることができますけれども、そういうふうにお考えになることも確かにできると思いますね。そうですね。そういう方面から考えていくと、そこには齟齬がないというふうに考えることも確かにできます。他に何かお考えありませんでしょうか。

生徒さん

本の中に、「夢の中で見る対象が実在しないことを、未だ目覚めてない人は悟らない」とありますけれど、これは、「現実」、私たちが今生活していることも、実は幻想である、delusionであるということなのでしょうか。もしそのようにおっしゃっているのであれば、それらは本当は存在しないということになるんですか。で、具体的に言えば、病気自体もdelusionと思えばその病気自体もなくなってしまうということになるのでしょう
か。)

どこまでのお答えをするのかはちょっと難しいんですけれども。例えばもし仮に、都合良く病気を「無いもの」にしたいとします。例えばですよ。そして、そのときそういうふうに思おうとするその真の動機というものが、どこから来るのかということを考えてみたいと思います。例えば目的が「病気を治す」ことだとしましょう。このときに、ある種の方法論みたいな感じで、言い換えればテクニックとして、とにかく「これは存在しない」というふうに本当に思い込んだら、病気はなくなるかもしれない。とにかく思い込む、思い込む、思い込む。例えばそういうふうな所から始まるのであれば、まあそれはそれで、時として何らかうまくいくようなことっていうこともまあ、あるとは思います。

例えばイメージ療法とかいろいろありまして、そういうふうなものも限定的にはある程度成立するとは思いますけれども、それはあまり根本的なものではない。これまでにも申しましたように、本当の本質的な道理に基づくということが一番大事なことで、道理に基づく中で、自然に自分の中のいろんなdelusionというものが一つずつ、自分自身の本質的な成長をするということと全くイコールに、一つ一つ夢から覚めていく。その中で、いわゆるその病気というものが治ることもある。そういうふうな順序性であると思うわけです。病気が治るというのはその結果の一部であって、ある種の目的意識から出発するものではないとは思うんです。

今、本質的に成長することと同じことであるというふうに申し上げたのが、delusion、言い換えれば幻想、思い込みから覚めていくということです。結局、自分が思い込んでいたことから自由になるということです。

例えばすごく小さいことで言えば、ある人が自分に対してこういうことをした、というふうに例えば思い込んでいたとします。思い込んでいたんだけども、実は全然そうじゃない。例えば、その人が自分を陥れようとしてあることをしたというふうに思い込んでいたのが、そうではなくて、その人は何とか自分を助けてくれようとしてやってくれたんだけども、たまたま何か巡り合わせが悪くて、それを陥れようとしたというふうに思い込んでしまった。で、その人に対して、そういうふうなことをずっと思っていた。けれどもあるとき、そうではないということがはっきり分かったとします。そうしますと、限定的ではありますけれども、その人に対しての考えは全て変わり、歴史も全部書き換えられていくわけです。

願わくばそれだけではなくて、そこで単に誤解していたということ以上の、何らかの大きな気付きが起こるというようなことがあった時。そういうときに我々は、それ以前の自分のあり方そのものではない「新しい自分」になっているわけですから、それを「夢から覚める」というふうに言っているわけです。ですから、成長するということは実は全て、「成長するということ」イコール「夢から覚めていくということ」なんです。ですから、そういうふうなことがいろいろあって、その結果として凸凹というものが埋まっていって、更にその結果として、いわゆる病気も治る。それが自然発生的に結果として起こるというのが、本来の順序性だと思います。

ですから、確かに実際にいろいろ病気をされている方というのはとても切実なので、何とかしたい。もう極端に言うと、少々悪いことが起こってもいいからこの症状だけ何とかしたいというふうな思いがするぐらい、苦しかったり、また何とかしたいというふうな思いの方がたくさんいらっしゃることはよく分かります。それそのものを否定するつもりも全くなく、そう言う人たちが、いろんな藁にもすがる思いでいろんなことを試してみたりされて、その中で、何と言うんでしょうか、何か例えばこういうふうに思い込もうとする。思ったらそれが何らか必ず通じるということで、そういうふうにその強い思いを持とうとするようなやり方っていうものは、まあそれはそれで、そういうふうなことなんだなと思うわけですけれども。まあこれは、そうですね、一般論として申し上げたわけですけれども。

生徒さん

唯識のもっと根本的なところでお聞きしたいのは、物が、目の前の「これ」が、結局「ある」んじゃなくて、私たちのアーラヤ識の中に種としてそういう情報が「ある」からこれが「ある」んだと先ほど先生がおっしゃったところです。私たちが「ある」と思うのは、それは表象的に映像として「ある」のであって、実際にはそれは「ない」んだと。私たちの感覚としては、触る手の感触としても「ある」ものですから、この見えた物は「ある」としか思えないんですけど、唯識はそこをちょっと否定しているようにこの本から受けているんですけど…

否定ではないんです。あくまでもここで述べられているのは、最終的な実在とは何かということです。ちょっと別の方向からお話しますので、その存在のある種の「濃度」みたいなものをちょっと考えてみてください。この「濃度」というのはどういう意味かって言うと、そうですね…どの程度の「実在性」があるかというようなことです。例えば、最も実在性が高い物のその実在性を、例えば数字で表して10であるとします。で、最もその究極的な実在、最終的な実在、これは「識」である。このことを考えてみたときに、このいわゆる「物」というものの実在性は、実は10ではないんだよと、ここではそういうことを言っているに過ぎません。これは「ない」んだって言っているのではなくて、その実在性は10ではないんだ、と。

 

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