生徒さん

今日はどうもありがとうございます。本は手元に買ってあるんですけど、まだ読んでなかったものですから、持ってきても仕方があるまいと思いまして今日は持って来ずにおりました。ですけど今日は本がなくて…まあ、いろいろ解説的に教えて頂きましたので、初めて本を開いて自分なりに読むよりは、何か意欲的に読めるような気が致します。できるだけ雨が続いて本が読み易い状態に、雨が続くことを念じています。ありがとうございます。

生徒さん

どうもありがとうございました。先生は必ずしもホメオパシーのこととしてお話になったわけではないと思いますが、ホメオパシーの「病名が付かない」という部分が自分なりに分かったような気がしました。

それと同時に今後、自分の中でいろんな、要するに「統一見解」のようなものを築き上げていく時のことを考えました。最終的に、私は今日の本を最後まで読み終わっておりませんけれども、この本の中である「統一見解」が成されているとしますね。その時に、それを読んでそれと同じ物を得たかのように感じながら、やはりそれが…どこまで同じ物を掴んでいるのかというのが、とても逆に不安になりました。同じ言葉でも、やはりそれぞれの言葉の認識はどこまでも違うのではないかと思った時に…本当に言葉のはしはしを、本当に難しいなと思って考えていました。どうもありがとうございました。

生徒さん

お疲れ様でした。非常に難しいお話でしたけれども、非常に刺激になりました。また楽しみに学んでいきたいと思ってます。先はまだ見えないと思ってますけど、まあ光が見えるような状態です。ありがとうざいました。

生徒さん

どうもありがとうございました。やっぱり人というのはある程度、意識、まあアーラヤ識、意識とか、光みたいな、そんなんだなと感じたと同時に、やっぱり表象としての物体でもあると思いました。その辺の認識というものを、自分の中で十分に理解できるというか、感覚的によく分かったというのを、今回の先生のお話で感じました。大変面白かったです。ありがとうございました。

生徒さん

私たちはほぼ、復習程度にやればいいかなと思っていましたけれど、やっぱり今日の先生のお話を聴いて、あの熱意に答えるためには私たちはもっと、本当に予習をしてこなければもったいない、先生からいろんなボーナスを引き出すには、もっと私たちの熱意と戦略が必要だなと感じました。

次回は皆さん、課題を事前に精読をしていただいて、私たちがこの貴重な時間からもっとたくさんの素晴らしいものを引き出せるようにしていきたいと感じました。

それと私は唯識で一番引っ掛かっていたところ、私たちが見えている物がこれは幻影であり、言うならば映像であるというところ、ここに以前からすごく引っ掛かってましたので、先生に今日何回かくどく質問致しました。今日お話をお聞きして、だいたい取っ掛かり的なところは理解できたように思いますので、もっとそれを深めていきたいと思います。ありがとうございました。

ありがとうございました。おそらく次回は、時間の関係から、できるところというのは最初の「当麻」ですね。それからその次の「徒然草」、これはここではお話することができませんが、その後の「無常という事」を理解する中で必要なことがたくさん出てきますので、「徒然草」も…ここは一番短いところですけれども…それも何度かは読んでいただきたいと思います。ですから次回は「当麻」と「無常という事」、この二つをやります。とても短い文章ですけれども、さっき言ったように、なかなか歯が立ちにくい、すごく濃い文章なんです。

どういうことかと申しますと、小林秀雄という人は、最初は大体この10倍ぐらい書いているんです。それをどんどんどんどん削っていって、表現を工夫して、そして大体10分の1ぐらいにしたんです。ですから、この短い文章は濃縮ジュースみたいなもので、10倍ぐらい自分の中で薄めないと…薄めるというか、一行一行、一文一文が、実は1ページ分ぐらいの意味を持っていることが結構多いので、よく読んでいただきたいと思います。

それから、次回までに「密教誕生」を読んでいただきたいと思います。そして、次回いただいているお時間、5時間の中の1時間半ぐらいは、この小林秀雄の文章を踏まえた上で、また唯識の話をしたいと思います。小林秀雄の中に、唯識と中観・空の思想と、両方出てきます。これはそのまま分かり易く出てくるわけではありませんけれども、出てきます。

それから、今回はお話できませんけれども、小林秀雄の文章に「私の人生観」というものがあります。でその中に、とても大事なところがあるんです。

ぜひどこかで見付けていただきたいと思いますけれども、「私の人生観」という一文があります。多少長い文章ですが、その中に「観」、「私の人生観」の「観」ですが、その「観」の話が出てきます。これは結局「世界観」ということなんですけども。

極楽と地獄というものが、まあありますが、これは別々にあるものではないと。極楽と地獄は別々なものじゃなくて、この世のどのような地獄と言われることであっても、それがそのまんま、ありのままがそのまま極楽に見えるような修行をしなくちゃいけないということなんです。これは、単に見える、そういうふうに思って見るという、そういうことじゃないんです。これはそのまんま、地獄と言われているものが、実はそのまま極楽でもあるのだということなんです。

ですからこれは、ちょうど先ほどのオウム真理教のお話ですとかと、直接繋がります。直接繋がることなんですけれども、この世のどのような地獄も、そのまま極楽に見えるようでなければ真の修行とは言えないということなんです。それは、先ほど言ったように、何ものもごまかさず、あらゆることに完全に対峙して、何ものも紛らわせずに、対峙していった末にですね、そのあらゆる地獄というものが極楽にまざまざと見えてくるようでなければ、本物の修行とは言えないということなんです。ともかく是非、次回までこの三つの文章を熟読していただきたいと思います。

何か今日は途中で終わってしまうような感じで、何か申し訳ないような気がしております。とにかくまた次回、あくまでもこの6回の中の1回1回は、必ずも完全に完結ということではありませんので、まあ次回以降も楽しみにしたいと思います。今日は長い時間、ゆっくりとお話を聴いていただいてありがとうございました。

 

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