では、68ページぐらいからもう一回声を出して読みます。最初に読んだ時とまた理解力が凄く違ってきていると思います。
「この場内には、ずいぶん顔が集まっているが、眼が離せないようなおもしろい顔が、一つもなさそうではないか」。
この眼が離せないようなおもしろい顔っていうのは、これは即自存在的な顔のことを言っています。
「どれもこれもなんという不安定な退屈な表情だろう。そう考えている自分にしたところが、今どんなばかばかしい顔を人前に曝しているか、ぼくの知ったことでないとすれば、自分の顔に責任が持てるような者はまず一人もいないということになる。しかも、お互いに相手の表情なぞ読み合っては得々としている。滑稽なはかない話である。いつごろから、ぼくらは、そんなめんどうな情けない状態に堕落したのだろう。そう古いことではあるまい。現に眼の前の舞台は、着物を着る以上お面もかぶった方がよいという、そういう人生がつい先だってまで厳存していたことを語っている」。
「仮面を脱げ、素面を見よ。そんなことばかり喚きながら、どこに行くのかも知らず、近代文明というものは駆け出したらしい。ルッソーはあの『懺悔録』で、懺悔など何一つしたわけではなかった。あの本にばら撒かれていた当人も読者も気がつかなかった女々しい毒念が、しだいに方図もなく拡ったのではあるまいか。ぼくは間狂言の間、茫然と悪夢を追うようであった」。
「中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花のように見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは、ぼくは、こういう形が、社会の進歩を黙殺し得た所以を突然合点したように思った。要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつくことができただけなのだ」。
もちろん「人形の美しさ」の周りをとは書いてないですね。「美しい人形」の周りをうろつくことができだけなのだ。
「あの慎重に工夫された仮面の内側にはいり込むことはできなかったのだ。世阿弥の『花』は秘められている、確かに」。
「現代人は、どういう了簡でいるから、近頃能楽の鑑賞というようなものが流行るのか、それはどうやら、解こうとしても労して益のない難問題らしく思われた」。
まあここ多少皮肉を書いてますが、よく世間一般の人はね、なぜ最近能楽の鑑賞というものが流行るのか、ということについて、つまらないことを書き立ててね、よくいる訳ですけれども、それもせいぜい解いてみてもね、別にどうってことない。だけども、結局はこの「難問題」ってどういうことかっていうこと、この難問題というのは非常に実は皮肉でね、いくら解こうとしても解けない問題、なぜか。これはぐるぐる回っている問題だから、いつまでも解けないので、だから難問題のようになっているだけであって、つまらない問題っていうことなんですね。
「ただ、罰があたっているのは確からしい、お互いに相手の顔をジロジロ観察し合った罰が。誰も気がつきたがらぬだけだ。室町時代という、現世の無常と信仰の永遠」
この「永遠」というのはね、結局この無常と永遠というのは、さっきの即自存在と対自存在、そこと結局は同じことで、無常というのは、これは対自存在。永遠というのは、即自存在です。即自存在だから永遠になる。対自存在なのでとてもはかない。相手との関係性の中にしか、存在できないようなある種の幻、無常である訳です。それを
「いささかも疑わなかったあの健全な時代を、史家は乱世と呼んで安心している」。
「それは少しも遠い時代ではない。なぜならぼくはほとんどそれを信じているから。そしてまた、ぼくは、無要な諸観念の跳梁[跋扈]しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういうふうに考えたかを思い、そこに何んの疑わしいものがないことを確かめた。『物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし』」。
そういう工夫を無限に重ねてみて、そして「花の失せぬところ」、花が消えないところ。どう見ても花が無限に存在する。即自存在として存在する。観念から作り上げたような花のようなものでは全然なくて、それが厳然、100%純粋な全部が即自存在であるところの花。それを知るべし。
「美しい花がある、『花』の美しさというようなものはない。彼の『花』の観念のあいまいさについて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているにすぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者[肉体]の動きは後者[観念]の動きよりはるかに微妙で深淵だから、彼はそう言っているのだ。不安定な観念の動きをすぐ模倣する顔の表情のようなやくざなものは、お面で隠してしまうがよい」
「表情」というのはね、この「表情」というのは当然ながら、対自存在的な、何かにただ反応するだけ、単なる反応しているだけのような、やくざなものはお面で隠してしまうがよい。
「彼が、もし今日生きていたなら、そう言いたいのかもしれぬ」。
「ぼくは、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。ああ、去年の雪何処に在りや」
ここでちょっと観念の方にちょっと入りかけて、
「いや、いや、そんなところに落ちこんではいけない。ぼくは、再び星を眺め、雪を眺めた」。
そのちょっと対自存在的な方に行こうとしたんだけど、いやそうじゃない。そしてまた再び、星を眺め、雪を眺め、その即自存在そのものだけをね、見ようとした。
美しい花を見て、何らか、美しさのようなものを考えてしまいそうになる。それは、それそのものは、無理もないことなんだけども、そこに結局、行かずに、また元に戻る、ということですね。