そうですね…ではここで、「違わないんだけれどもちょっと違う」話をしましょう。

ピカソという有名な画家がいました。皆さんもご存知のこのピカソ、もういろんな人から、この絵はどんな意味ですかということを聞かれていた訳なんです。どういう意味があるんでしょうかって。いわゆるいろんな、美学者とか、素人何とか研究者とか、そういう人たちが、もうこの意味について、この点の意味について、あの線の意味について…って、すごくうるさく聞く訳なんです。

それで、ある時ピカソはバーッと描いて、早速これはどういう意味があるんですかって聞かれた時に、こう答えたんです。一見冗談に聞こえるんだけど、とても本質的な答えでした。「これは『100万ドル』という意味がある」って。要するに、その絵のある種の値段を言った。半分冗談なんだけども、結局、どういう意味があるんですかっていう問いかけそのものに、本当は何の意味もない訳なんです。

もう、それは何の解説もできないようなものなんです。何かこれこれこうでああでこうで…っていうふうに、説明できるような意味っていうものは一つもない。ただし、意味という言葉にも実は無限の段階があるのであって、本当は、一番深い意味で言うと、あらゆることにはもちろん意味があります。つまり観念ではない所では、全てのことには意味があります。そして、美というものもあります。そうなんだけども、それは一番深い所での意味であって、観念的な美しさということになると、もう離れていってしまうんです。

「美しい花」がある。美しい花というものは、「これ(it)」なんです。即自存在です。でも、「美しさ」「花の美しさ」ってことになると、これはもう即自存在ではないですよね。これは対自存在なんです。「これ」が観念になると、もうここからどんどん離れてくる訳なんですね。

ここで「無常という事」に突然飛びますけれど、74ページを見て下さい。74ページの真ん中辺り、真ん中よりちょっとだけ前です。

「そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付けだすことができない」、「だがぼくはけっして美学には行き着かない」と書いています。

その前にこういう箇所もあります。あるとき、以前に読んだある文章が心に浮かび、心に染みわたった。何ともあやしい美しさっていうものがウワーッと、一つの絵物語というか、絵巻物のように、自分の上に広がった。ところが、今はもうその同じ文を目の前にしても、つまらぬことしか考えられない。

依然として一種の名文とは思われるが、あれほど自分を動かす美しさは何処に消えて了ったのか。消えたのではなく現に目の前にあるのかも知れぬ。それを摑むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取戻す術を自分は知らないのかも知れない。こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、少しも疑わしい性質を見付け出すことが出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。

つまり、例えば美しい花を見て、その美しさにとても感動した。そしてその美しい花に非常に感動して、何となく、美って一体どういうものなんだろうか、美しさって何だろうかっていうふうに、何となくそれを思うことそのものには、これは何の疑わしさもない。だけれども、それが「美学」ということになると、その花と切り離した「美・学」ということになると、その美しい花とは一応一旦切り離した形で、「美しさ」というものについて語るようになる。

そうすると何がいけないのか。もちろんそれは、もともと美しい花を見て…という所から出発したのではあるけれども、「美・学」ということになると、どうしてもその美しい花から一旦離れて、ある程度抽象化することになる。そして抽象化してくると、その具体的なことから離れてしまって、抽象的な言語、言葉の虚妄というか、言葉によって考えられてしまう。

つまり、そのものとの直接的な関わり方によって、実体において考えるんではなくて、いつの間にか言葉が勝手に次の言葉を呼び、どんどん空虚な言葉だけの、言葉遊びのような、そういうふうな所にすぐに行ってしまうということなんです。そして、言葉というのは非常に強い力を持っていますので、言葉遊びの中にいたら、言葉遊びになっているということには非常に気が付きにくい状態になります。そして、どんどんどんどん実体性を失っていくということがあります。

そして、言葉が勝手にいろんな疑問形というものを生むようになってしまいます。言葉が本来もともとの所に基づかないで、どんどん袋小路の中に落ち込んでいってしまいます。もともとはある実体、例えば「美しい花」から発してはいたはずなのに、いつもそこに、地に足を着けていなければいけないのに、そこからだんだんだんだん遊離していく。遊離していった後、それはそれで、言葉だけの世界の中でいろんな議論は可能なので、その中で議論をすることで自己満足をしてしまう。何かとても本質的なことを考えているように、自分をごまかすことができる。

そのことを、68ページの一番後の方で言っている訳です。

要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの慎重に工夫された仮面の内側に這入り込む事は出来なかったのだ。世阿弥の「花」は秘められている、確かに。

だから、「花」は秘められている。なぜかっていうと、世阿弥の「花」とは一体何か、というふうな、その観念に行ってしまって、そしてそれを言葉で捕まえようとするからです。69ページの真ん中に、世阿弥の「『花』の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者」という表現があります。

つまり世阿弥は、その美というものについて、観念でこれこれこういうものだというふうに、説明可能なものだとはもちろん考えていない。でもそれは表現することはできる。どのようにして表現していくのか。どのようにしてそれを突き詰めていったらいいのか。それは「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし」ということによってしか、獲得できない。

これはちょうど、いわゆる禅的な探求の仕方と同じです。つまり、何かについて考える時に、例えば、これは美でない、これも美ではない、あれも美ではないし、AもBもCもDも全部、例えば全部それはそうではない、ということをやっていき、それを極めていって、その無限の後に初めてそれを獲得することができる。

初めから、これですよ、と説明的に言うことはできないということなんです。それはある種の点のようなものです。点というものは大きさも広がりもないので、これは点じゃない、これもそうじゃない、これもそうじゃないです、あれもそうじゃないです…というふうに、否定形でしかそこに近付いていくことができないということなんです。

そして「物数を極める」ということ、「工夫を尽くす」ということ。まあここで言う物数とは、とりあえず物数でいいです。とにかく無限に近い、いろんな試みをやってみる。とにかくいろんな、人工的でもいいから、いろんな工夫をしてみる。とにかくそれを尽くす、やり尽くすということですね。あらゆる試みを全部やり尽くしてしまう。でこのやり「尽くす」ということ。ここでは、「尽くす」というのは「無限」を意味しているんです。

 

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