森羅万象セミナー

第2回 §22

我々は、気が付いた時にはすでに生きていますよね。気が付いた時にはもう産まれてい て、生きている。生きていて、何か食べなきゃいけないし、こういうこともしなきゃいけ ないし、ああいうこともしなきゃいけないし…って、とにかくいろいろ活動しているわけ です。そしてその中で、いろんな問題が起きてきたりするわけです。

本当は、いろんな問題が起きるっていうことは極めてありがたいことなんです。問題とい うのは、今のままの自分でいた時に、何らか解決しなければならないことがあるというこ とを教えてくれてもいるわけです。結局我々は、それなりに生きてはいるわけですけれど も、あらゆる根本に立ち返ってそこから全てがそうあるべくしてあるような、秩序に則っ て生きているわけでは必ずしもありません。

言ってみれば何となく、というよりもとにかく、気がついた時にはしなきゃいけないこと がいろいろあるのでそれをパッとやる、次の時には別のことに気がついてそれをパッとや る…そういうふうにして、「とにかく生きている」わけなんです。その中で、いろんな問 題が起こって悩む。何かがおかしい、何かがこのままではいけない、ということを感じ、 そして問題の本質がどこにあるのかということを考えたりするわけです。

そうしていくうちに、それを正しく考えた時にはいろんなことがそれまでとは違って感じ られるようになる、ということが次第に分かってきます。ああ、これはこういうふうに何 となく漠然と思ってやっていたんだけれども、その本当の姿ってそういうことじゃなく て、それは単に仮構された存在形態に過ぎなかった、本当はこういうことだった、ああい うことだった…ということが真に分かってくるわけです。

そうすると、今度はそこから出発して、物事をそうあるべくように組み立てていこうとす るわけです。日常生活の中でも、いろんなレベルでそういうことが行なわれます。最終的 には、最も根源的な、全ての根源、「存在のゼロポイント」まで立ち返って、あらゆるこ とを再定義して生き直すということになるわけですけれども。

そのときに、いったいどのようなことが「仮構されたこと」だったのかということ、今日 はまだこのお話を充分にしておりません。お話したのはアーラヤ識の途中までで、まだ末 那(マナ)識の話を充分にしていないわけですね。

この末那識の話っていうのが、極めて重要なわけなんです。この「自我」。なぜこの識が 「『自我』に執着する」と表現されるのか。まあこの識は後ほど出てくるように、「汚れ たマナス」とも言われるですけれども。ある種の「汚れ」です。ただこの「汚れ」と言う 時に、あまり否定的な意味を持たないで頂きたいんです。さっき「色」と言いましたけれ ど、これは「色」とすごく深く結びついてきます。「汚れ」っていう言葉を使うとどうし ても、汚い物、悪い物というような、何かマイナスのネガティブな感じがしてしまうので すが、あまりそういうふうに考えてないで、「いろんなエネルギー」というふうにお考え 頂きたいんです。

この世にいわゆる絶対的に悪い物、絶対的にいい物というものはありません。

そうですね、この本は次回までに、どうしても2回はやっぱり読んでいただきたいんで す。2回ほど。2回読んでいただいてお話できることと、1回読んでいただいての場合 と、内容が違ってきます。今回このテーマを1回完結でやろうと思ったのは、しつこいよ うですけれども、読んでいただいているという前提のもとで、ある程度次々とポイントを お話をしようと思っていたからなんです。

では、163ページを見てください。急に少し飛びますけれどね。

「『最近の論で、アーラヤ識を三つの心に分類して考える考えかたがある』

[略]

『よいか、三つの心だ。これを、能・所・執の三義という。アーラヤは、前に述べた通 り、“蔵”と訳せられる。だから、能蔵、所蔵、執蔵だ。どういうことかというと、能蔵 とは持種の[種を持つ]義であり、所蔵とは受熏の義である。つまり、一切の種子を執持 して失なわない点で能蔵といわれ、七転識に種子を熏ぜられる点で、所蔵といわれるのだ な。つぎに、執蔵とはなにかというと、つまり所執蔵、他から執蔵せられるという意味な のだ。では、どこから執せられるのかというと、第七識に常に“我”と執せられるという のだ。

ここでひとつ冒頭にかかげた“瑜伽師地論”の章句を思い出してもらいたい。すなわ ち、なんとあったか。“我愛によって個体が形成され、アーラヤ識と結合して生長し、出 生する”とあったな。これは、“我愛”が中心になってアーラヤ識をひきよせ、個体が生 長してゆくということで、このことを、すなわち、所執蔵、つまり他から執せられる、と いったのだ。これでわかったろう。アーラヤ識をつねに“我”と執する意識とは、すなわ ち、我愛とよばれる第七意識であったのだ』

この老師の解説は、要するに、第七識とはつねにアーラヤ識の流れを『自我』と見なす 思惟[マナス]を本質とする識だということである。そこでマナスの識と名づけられる。 すなわち末那識である。

この識のあることによって、人間は、六種の認識器官による認識が、つねに、自分のな にものであるか、(自分が自分である)を把捉する性質、すなわち自我意識を持つことが 出来るのである。」

「ところが、この識は、つねに自分を把捉していなければならぬという機能の結果、なに ごとも自己を中心にして思考するという宿命を持つ。」

自分に執着していないと、この世に生存し続けるということはできない。従って、この世 に生存するためには、何事も自己を中心として思考するという宿命を持ってしまうという ことなんです。

「その結果、『我痴』『我見』『我慢』『我愛』という我執の四煩悩をつねに伴うように なるのである。そのため、この四つの煩悩に汚されているので、第七末那識は、『汚れた マナス』とよばれるのである。

最初、マナ識はアーラヤ識とおなじものであると思われていた。アーラヤ識は、個体維 持の中心として、生存の根本動因としてはたらき、マナ識はその中でも最もつよい自己保 存、自己防衛を主にした自我意識であるから、両者の機能は深く密接にむすびついたもの である。だから、古い唯識学では、とくに第七識を立てず、アーラヤ識の中にふくませて 考えていた。のちに、この我執を中心にした自我意識のはたらきを、独立の識の機能とし て見るようになり、第七識を立てるようになった」

続く

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