そうですね、ここまででは唯識の3割ぐらいしかお話しできていなくて、まだいろいろあるんです。ですが先に進む前に、先ほどお話しした極めて重要な所を、もう少し補足したいと思います。アーラヤ識のところです。

先ほど、アーラヤ識というものはあらゆる物を全てをそのまんま受け取る、とお話しました。いろんな色、あらゆる色というものを全部受け取ったら色としてどんな色になるんでしょう。黒ですね。いろんな色、例えば黄色だとか赤だとか、この世のあらゆる色を混ぜ合わせると、黒になります(色料の三原則)。あらゆる色をそのまま受け取るわけですから、そうするとそれは、真っ黒になります。

では、光の三原色を混ぜ合わせたら何色になるでしょう。そうですね、白です。先ほどの黒とは全く反対ですよね。ですがこれはただ単に偶然ではないんです。偶然の話じゃなくて、これは必然的なことです。黒と白というものは、実は本質的に同じだからです。ちょうど対極に見えますけれども、実は本質的に同じであるわけです。これをちょっと違う言葉に置き換えて考えてみましょう。

例えば、最も清浄な、清らかな心を持っている人というのはどんな人か。しばしば我々は、清浄と言うと白を思い浮かべますよね。ですがこの時に問題なのは、どのような白なのかっていうことなんです。

例えばこんな人がいるとします。「私は汚れたくない。どのような苦しみを持っている人がいても、苦しい人に近づかれると自分が汚れるような気がして近づきたくない。あっちへ行って。」これって白い心でしょうか。清浄な心でしょうか。逆ですよね。

どのような苦しみを持っている人に対しても変わらないような、無条件の愛情とか思いやりとか、そのようなものを持てる人。方向性としてはそのような人を、清浄な人と呼びたくなりますよね。そしてこのような人は、どのような苦しみを持っている人と交わっても全く汚れることがない人です。つまり、どのような苦しみ、どのような黒い物もそのまま受け取れると同時に、むしろ黒くなればなるほど白くなる。汚れがない。

このアーラヤ識というものは、本来そういう識なんです。真っ黒であると同時に真っ白である。そしてもっと言いますと、人間というものは本当は、何があっても、最終的な所では決して汚れることはないんです。汚れるんではないかという恐れは持っています。何が恐れを持つかって言うと、この末那識が持つわけですね。恐れを持つと、自分の周りにいさせたくない感じ、しっしっという感じ、やっぱりそういうふうになりがちなわけです。そうすると、決して白くはなれないということなんです。白くなりたいと思えば思うほど、実は白くなりにくくなるということですね。本当の意味で白くなれない。

また、例えば我々はよく傷つきます。いろんなことに傷つきますよね。人からこんなことを言われた、こんな目に遭った、こんなに酷いことをされた…そうやって我々は傷つきます。その傷付くということ、これは確かにその通りなんですけれども、では何が傷ついているかって言うと、それは実は末那識が傷ついている。末那識の働きなんです。

人間というものは、よく考えてみると、傷つかなければならない理由というものは、本当は究極的には存在しないんです。これは、世の中で傷つく人はいないとか、そういう意味とは全く違うことなんです。我々はもう日常生活でたくさん傷ついています。それはその通りなんです。その通りなんだけれども、自分がなぜ傷ついたんだろうということをよーく考えてくると、だんだんそういうことに突き当たります。本当はよく考えると、我々が本質的に傷つかなければならないようなことっていうのは、本当はないんです。つまり、このアーラヤ識のレベルで考えてみた時には、傷つかなければいけないようなことは、本当はないということなんです。

例えば誰かに酷いことを言われたとします。まあ普通は、酷いこと言われたら「何だこの野郎」って思います。このときに、なぜ「何だこの野郎」というふうに思うのかっていうことなんです。またあいつがこういうふうに自分のことを言った。自分は一生懸命これをやったのに、こんなことを言われるなんてとんでもない。まあ、どちらにしてもそういう方向性の感情が起こりますよね。この時に、それは本質的にそうでなければならないようなことなのか。

そうですね、例えば同じようなことを違った人から言われたときのことを考えてみましょう。例えば、二人の人から「お前は馬鹿だ」って言われたとします。最初は昨日上司にね、こっぴどく叱られて、「お前は馬鹿だ」って言われた。そうして、「お前も馬鹿の癖して、お前には言われたくない」と、例えば思ったりするとします。

今度は家に帰って、言葉を覚えたてちっちゃい子が、たまたま「お前は馬鹿だ」っていうのをどこかで覚えてきて使ったとします。そしたらその上司に言われたのと全く同じように、その子に対して同じような反応というものを我々は起こすでしょうか。もちろん人によっては、何らか思いもかけずそういうことを言われてガクンと来るということはあったりするかもしれませんけれども、そういったことは別として、我々が何に傷つくのかっていうと、それはいわゆる言葉そのものではないわけなんです。

その言葉、必ずね、その言葉が発せられた、その言葉として表現をされたエネルギーに対して傷つくわけです。悪意とか、罵倒的な気持ちとか、軽蔑的な気持ち、それをそこから受け取るから我々は傷つくわけですね。ですので、例えば同じ言葉でも、そのようなエネルギーが感じられなかったら、我々は受け流すことができますよね。結局の所、本当に意味を持っているのは言葉そのもの、行為そのものではないということなんです。

 

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