癌セミナー講義録(後半)
前半では全般的なことについてお話をさせていただきましたけれども、後半では少し具体的なことをお話をさせていただきたいと思います。
ホメオパシーというのは、基本的には癌に対するレメディとか、風邪のレメディとか咳のレメディとか本当はそういうも実はありません。あくまでも一人一人に対して、その方のそのエネルギーと申しますか、その人の存在のあり方っていうものが、どのような存在のあり方をしているのかということ。それを見て、その存在のあり方、全体に対して、最も似ているもの、最も似ている存在のあり方をもっているようなレメディを見つけてそれを投与するということになるわけですね。
ですから言ってみれば、これが癌のレメディですというようなそういうものは厳密に申しますと一つも無いんです。一つもないんですけれども、でも結果として癌を患っていらっしゃる方に、しばしば投与することが多いようなレメディというのは実際には存在します。もしくは、その存在のあり方というものがどんどん身体的に表現をされたときに癌的な症状を呈する。そういうことになりやすいレメディ、と言うのは確かにあります。本日プリントをお配りしておりますけれども、その中で、まず一番はじめにお話をしたいのが、CARCINOSINというレメディです。
現在、CARCINOSINというレメディは現在はかなりしばしば使われています。ただしどんな風に使われることが多いかと申しますと、それ単独で治療をするということではあまりなくて、いろんなレメディの間に入れるということをされている方が多いです。 inter currentという言い方をするんですけれども、いろいろな流れの中に入れるというんです。今日は具体的にどうするというお話ではないので、どんなふうに中に入れるかというお話は省略致しますけれども、癌の患者さんにこれだけで治療するわけではないんですけれども、非常に重要なレメディです。
これが当然、癌とホメオパシーとの関係性の中で、まず最初に、中心に来るレメディであるわけなんですね。次に中心的に来るレメディと申しますか、癌を考える上で、非常に癌になりやすいエネルギーを持っているレメディというのが様々あります。
前回花粉症のセミナーでお話をしたときにアレルギーということで、いろんなレメディがあるわけですけれども、単なる花粉症からとった非常に表面的なレメディもあれば、症状の類似ということで、たまねぎを切ったときに我々に生じることと、花粉症の症状は良く似ているわけですけれど、症状の類似だけからのそういうレベルのレメディ。そしてもうちょっと深いレベルとして、ど真ん中にくるのがARSENICUM(ヒ素から作られる)というレメディー、自己と非自己の峻別、過度の峻別からくるレメディのお話をしましたけれども、実は癌を考える中でも、またしてもARSENICUMは真ん中に来るレメディの一つなんです。
前回、アレルギーの場合には、いわゆる抗原抗体そして自己と非自己ということから、ARSENICUMの自己と非自己の峻別ということが、割りと解り易く理解がしやすかったわけですけれども、そうですね、ホメオパシーのレメディを考えるときに、マヤズムということも考えてゆく必要があります。
それから、STAPHYSAGRIAというレメディーも関係してきます。
又これとちょっと似ていますけれども、NATRUM MUR.というレメディもあります。
俗によくある本でも長生きをするための秘訣というようなことがよく書いてある本があって、例えばいろいろな物事をきちんとしないでいい加減にするとか、あまり責任を取らないとか、ちゃらんぽらんな感じでいろんな物事をすると長生きをするとか、書いてあると思います。しかし、先ほど申しましたように、我々は長生きをする為に生きているんではないのでね。あんまり自己批判のしないで、自分の事を冷静に考えなければいけないことは確かにありませんが、どうしても過度に自分を批判し傷つける、そういう傾向があるわけなんです。
今回、癌のお話をするのでいろいろ考えたんですが、花粉症セミナーのように、わりとレメディと花粉症との症状との関係がシンプルに単純に分かりやすいものと違って、癌は最初に申し上げたように、非常にミステリアスなもので我々の存在のあり方に非常に深いところに関係をしているものなので、前回のときほど明快にはなかなかなりにくいんです。なので、今お話をお聞きになっていてもレメディとの関係性の仕方について、少し解りづらいところもあると思うんです。
ただ自分をどんな風にして、ある種、命を削っていっているか、人によって非常に違うので、癌に関するレメディを調べていったら、軽く数百種類は挙げられます。
それぞれ一人一人違う経路をたどって自分自身の存在のあり方の様々なことから、人間生きていくということは、ある種、自分を傷つけながら生きていく、ということにもなるわけです。自分を傷つけながら生きていくというよりも、ある種傷が付いてくるわけです。傷というものが別に悪いということを意味しているわけでもありません。傷というものは素晴らしいものでもあるんですけれど、なんでも傷がないほうがいい、新しいものの方がいいとか、本当は傷は傷の存在の意義、素晴らしさがあり、立派な傷とか、いろいろあります。
そして人生の大きな意味、この世に生命を与えられている意味というのは、最終的にすばらしい傷、傷というと多少言い方が違うイメージになるかもしれませんけれども、人生の様々な喜び悲しみ、それらは結局同じことなんですが、それを感じながら、そして傷そのものが自分自身を豊かにしてくれると同時に、自分の生命を全うしていったときに人生がだんだん終わってくるということでもあるわけなんです。
少し普通の話をしますと、例えば、食事との関係というのがあります。よく日本人とアメリカ人とがなりやすい病気は結構違いますが、日本人がアメリカに住むと、だんだんだんだん、やはりアメリカ人の病気のなりやすさ、死亡率にだんだん近づくゆきます。現代医学的にはだから食事は大いに関係がある、と考えているんですが、食事とか、アメリカという風土も含めて、食事は単なるものではないんですね。それは、エネルギーなのです。
なぜ、アメリカでそのような食事をしたくなるのか、皆さんも経験があると思うのですが、どこどこに行ったときはすごく美味しいんだけども、すごく美味しかったと思って日本で食べたらそんなに美味しくなかった。その風土、その中にいると必然的に欲求してくるようなもの、食事の方向性などがあったりするわけです。癌についてはいわゆる外因説、外の様々な要因とか、仮説はあったんですけれど、日本人の方が1915年ぐらいにタールか何かを塗り続けて、それが発癌する、日本人の方が、煙草との関係等、多くの研究によって発見をしてきているようです。そして、社会的にも、確かに煙草の広告等では癌と喫煙との関係を書かなくてはいけなくなっています。
しかし、喫煙自体、飲食物自体それだけを考えるのではなく、全体としてみてゆく必要があると思います。
先ほど癌のイニシエーションの話がありましたけれども、イニシエーションというのは結局は、何らかのdisorderが起こってくる、その理由というのが現代医学的には捕まえられないわけですけれども、そこが、ミステリアスな領域に入っていくのです。
いろいろな仮説はありますけれど、ホメオパシーでは大きなエネルギー的な捕まえ方のなかで、このExcess(過剰)とDestructive(破壊)このふたつの両極的なものの中に我々の存在の在り方がある種、翻弄されてAutonomyを失う、と癌を指すときによく使われる言葉なんですが、自分という主体をある種失って、腫瘍のエネルギーにコントロールされてだんだんと支配されて、その中に翻弄されてくる、だんだん自分を削ってくる、そして最後はエネルギーが去ってゆく。
ホメオパシーで起こることっていうのは、ただ単に治ります、とか消えますとかだけではなく、本来の滞りない循環の中で得られる幸せの中にそれらは必然的に含まれてきます。そして様々世の中で言われているような食事がいいとか、そういうものをやるといいとか、それそのもの自体も本当に自然な流れの中にあって、それさえすれば癌が治るとかそういうことでは本当はありません。大きなエネルギーの中にあるということ、それをみてゆくことです。
今回癌セミナーということで皆さんの中にはもう少し良く分からなかった方もいらっしゃるかもしれません。又様々な違った視点から年に3、4回ほどテーマを決めて、お話を致しますので、是非又起こし頂けたらと思います。
近藤誠さんの本は、皆様にも是非一度読んでみていただきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。
- 参考文献
- 著者:近藤 誠
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- 『「がん」ほどつき合いやすい病気はない』 講談社プラスα文庫
- 『がんは切ればなおるのか』 新潮文庫
- 『患者よ、がんと闘うな』 文集文庫
より詳しい説明
- CARCINOSIN
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これはレメディノートの10番目ですね。これはアロマトピアという雑誌に載せさせて頂いていた私の記事です。ここでCARCINOSINというレメディについて、ある程度CARCINOSINのレメディの物語と申しますか、それについて多少斜め読みをしながらプリントにそってお話をします。このレメディは通常の、動物、植物、鉱物でないような、目に見えない月の光ですとか、そういうものもレメディの中に位置します。CARCINOSINも通常の動物、植物、鉱物ではないんですが、動物の中に入れられないわけでもありません、乳がんの分泌物から作ったのもなのです。
癌の病変組織からつくったレメディというとびっくりされる方が多いのではないかと思いますが、どうして癌がレメディになりうるのか、前半お話したことがプリントにも書いてありますが、昔から癌と言う言葉はあったんですね、英語ではCancer(星座の蟹座もCancerと言う)、ドイツ語、ラテン語でも皆、蟹という名前がついているんです。「蟹、」なぜこのような名前がついたのか、いろいろな説があるんですけれども、ちょうどね蟹がへばりついているように見えるからCancerと呼んだんではないか、とか蟹のようにしつこく、へばりついて、恐ろしいはさみでもって我々を蝕んでいく、そのようなイメージからCancerという名前がついたんではないか、様々な説があるようです。またどういうものをCancerと呼んでいるのか、昔Cancerと呼んでいたものと 今Cancerと呼んでいるものは同じとは必ずしも限らないんですけれども、とにかく、その時代時代で、その時代最も力を振るっている病気というものがあります。
例ばペスト、ペストというのは非常に巨大な力というものを、いままで中世では3回ほどペストの大流行があって、ヨーロッパの人口の3分の2が亡くなってしまったらしい、大体5、6千万人ぐらいが亡くなったであろう、そういう時代もあったり、様々な恐ろしい病気がはやっては廃れていく。なぜある病気が流行し、蔓延し、そして又、自然に廃れていくのか?必ずしも根本的な治療法があって、そして廃れたとは限らない、そして又違う新しい病気がはやってはまた廃れていく。そういう事を何度か繰り返しているわけですけれども、現在最も力を振るっている病気というものが癌なんですね。
これは20世紀になって前半から後半に移る時に、だんだん癌が世界の中で支配的になってきたわけですけれども。その前は結核だったわけですね。17,18世紀はかなり長く結核の世紀でもあったわけですね。結核がだんだんはやってきてそして相当長く、つい戦前、戦後すぐは、結核の時代だったんですけれども、それがだんだん下火になってきて今は癌が力を得ているわけなんですけれどもね。なぜそうなっているのかについては、人によってはいろんな見方があると思います、例えば結核が今、下火になってきたのは、有効な治療が確立されたからだ、と単純にそう考える人もいらっしゃいます。それは確かにその通りでないわけではないんですが、必ずしもそれだけではない。またその治療法なるものが発見される、ということ自体もその時代のエネルギーと申しますか、その中に入っているともまた言えるわけです。
まあ、そこについては今、詳しくお話しする時間が無いんですけどね。とにかく時代のエネルギーというもの、時代の流れというものと病気というものは無関係では決してないんです、そしてその時代の空気というか雰囲気というか、どのような時代なのかということと、どのような病気がその時に流行るのかということは、決して無関係ではない、無関係ではない、どころか非常に密接な関係を実は持っているわけなんです。
いま少し、結核と癌のこのふたつの病について、時代の空気との関係性について、少しだけお話をしますけれども、産業革命というものが今から数100年前に起りました。産業革命と申しますと、我々はどうしても蒸気機関車ぐらいからしか、産業革命のイメージはありませんけれども、蒸気からはじめて始まったわけではないんです。それが始まったのは100年〜150年ぐらい前の水力から始まったんですね。それまで人間が臼をついていたわけですけれども、川の水を利用して、おおきな水車を作って、それによって粉をひく、そういう風な装置が出来てきたんですね、これは大きな革命なんですね。
それまでどんなにやっても人間の力、何か働くということは、人間はどうしても休憩が要りますから、休息が必要です。一日何時間も食事をしなければいけませんし、トイレにも行かなくてはいけない。そうすると仕事をするということはどうしても人間の制約ということと非常に深く関係しますよね。人間が食事をしているときには、食事をしているのであって、食事をしながら皮のベルトは作れませんし、メガネを磨くことも出来ません。あらゆるいろいろな仕事というのは人間の自然というか、人間の条件と密接に合ったわけですね、けれども水力にしても、その後の火力にしても、人間の力を超えたような力を借りるわけです。それはある種、人間をコントロールするようなそういう立場に立ちますと、それまで人間の制約に制限されていたような様々なことが、根底からどんどん変わってくるわけですね。人間がいなくてもいろんなことが出来るようになって来るわけです。
いわゆる機械ですね、機械は昔からあったんですけれども、昔の機械は人間がそこに介在しないと働かなかったわけですね。例えば拳銃にしても人間が打つから動くわけでどんな機械もそうでした。しかし、それがそうでない、人間の都合に、ある種無関係、もしくは別の次元で機械が勝手にいろんなことをしてくれる。それも人力よりも、はるかに大きなスケールでやってくれる、ということはこの数百年前まではなかったわけなんですね。そのようなことがだんだん起こってきますと、次第に仕事に対する考え方、要求度、そしてそれが及ぼす社会的な影響、家族に及ぼす影響というものが、段々段々思いもかけず変わってくるわけです。
それまでは先程申しましたように人間は休まなければいけない、休んだときには仕事は中断される。だけども水車はいくらでも動いてしまう、そうするとだんだんどんなことが起こってくるかというと、機械の都合に合わせて、人間のいろいろなことを決めなければいけなくなってくる。以前は人間の都合に合わせて機械を動かしていた、それがある知らない間に、逆転が起こってきて機械の都合に合わせて人間のことを決めなければいけなくなった、これは非常に微細なレベルから微妙な形で自然にだんだん行われ、浸透してくるわけですね。
これがいったいどうしたの?という感じを受けるかもしれませんが、これは非常に微細なレベルから起こりますが、非常に大きな力っていうものを、あらゆるところに及ぼしていくわけなんですね。人間がどういう風に生きていくのか、どのように家族と過ごすのか、仕事ということに対して、どのようなことを要求されるのかあらゆるレベルであらゆることが変ってきます。つまりもともと人間が便利さの為に作ったはずの機械に逆に動かされる、支配される、自分が主体であって何か動かすのではなくて、何か大きいな物があってそれに動かされるわけですから、とりもなおさず、何になるかというと、suppression(抑圧)になるわけです。
何かによって自分のことを決められてしまう、人間は何かを勝手に決められると、どんな衝動が沸いてくるでしょうか?勝手に決められますと何とかそこから抜け出そうとします、そしてもっと自由になりたい、そういう風な衝動が沸いてくるわけですね。そして、ある種決められることはとても機械的なことになるのでそれまでの人間の自然な自発的なことがだんだん失われてくるわけです。そしてそれに戻っていきたい、ロマンティックな方向性、失ってしまったものを取り戻そうとする、そういう風な方向性が起こってくるわけです。機械に縛り付けられていると、そこにいなきゃいけないので、いろんな抑圧的なエネルギーが出てくるので、そこから逃れたくなってくる。どこかに旅行に行きたくなるですとか、とにかくじっとしていられなくて、わっ〜といろんな衝動が沸いてくるですとか、こういうことになってくるんです。
そして、今お話しているような、そのような方向性というのは実はホメオパシーの中でTUBERCULINUMという結核菌からとったNosode(ノゾ=病変組織から作られたレメディー)があるんですけれども、それが、TUBERCULINUMというレメディの大きな症状像の方向性なんですね。
- TUBERCULINUM
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そのような初期的な産業革命以降に起こってきているような、人間のエネルギーの方向性というものが、実はこの結核菌から、特にこの場合は肺結核の病理組織から作ったレメディと、その症状像と非常にぴったり一致するわけなんですね。それで、これは偶然ではないというふうに考えているわけなんです。
そしてTUBERCULINUMの時代が有る程度長く続いたわけですが、まだsuppression(抑圧)というものは、牧歌的と言いますかね、以前に比べるときたんですけれど、でもまだそんなにひどいものではなかった、それ程でもなかった。自然も残っているし、機械と言っても、そんなにたいそうなものでもなかったわけですね。それが段々、段々蒸気の革命を皮切りにしましてね、第2次の大きな産業革命が起こってくるわけです。これは、これまでの産業革命よりももっと徹底的にあらゆる面で、徹底的に極度に段々推し進められるようになってきたわけです、そうしますと次第にあらゆることが、ノルマーという言葉がありますけれども、何かを、全部完璧であって当然、仕事もきちんと出来ていて当然、出来ていないとそれはマイナス、そういう風な方向性にだんだんなってくるわけですね。
つまり、第二次産業革命以降というのは、第一次産業革命にあった時のいろんな芽が出てしまったわけですけれども、
もっと徹底化し、もっと極度化した、そういうふうなものに推し進められてきたわけですね。最初は、抑圧はあるけれども人間の自由度はまだある程度あった、しかしそれ以降にもっと極端なほうに推し進められますと、もっとプレッシャーは非常にきつくなって身動きできなくなる。そうしますと自分をそこまで抑圧しているような様々なエネルギーと申しますか、上からのある種の圧力や、権威的なものに対して、非常に怒りといいますかね、一応その中にあるので、自分の価値観というものを大きく作り出してもいるので、そのような価値観をもちながらも、それに対してものすごく怒りがある、その様な方向性というものを持っているわけです。それに加えてまたロマンティックな方向性というのも、やはり結核に続いて、そういうところからもう抜け出したい、極度なsuppression(抑圧)から抜け出したい、もっと人間らしく生きて生きたい、そういうふうな方向性のエネルギーもまた同時に生まれるわけですね。
いわゆるリゾートというものは昔から確かにリゾート的なところが無いわけではなかったんですけどね、ずーと昔はある種あらゆるところはリゾートですから、リゾート地を作る必要もなかったわけですよね。なぜリゾートができたのか?それは今から200年前ぐらいから段々出来始めたわけです。産業革命以降に段々出来てきて、どっかで生き抜きをしないといけない、どこかに閉じ込められているわけですから、閉じ込められているところから自由になって、そこではのびのびと人間らしく暮らしたい、人間を取り戻したい、という感じ、それは普段は人間らしく生きられていないということから、そこから何かを一気に取り戻したい、そういう衝動が沸いてくるわけです。それがもっと極度になってくるわけです。非常に旅行に行きたいし、ロマンティックなものにより憧れる、ということになります。
これは先ほどちょうど、結核から作られたTUBERCULINUMと同じように、癌から作ったレメディCARCINOSINというレメディの症状像の中心的な方向性であるわけです。CARCINOSINというレメディ全体ですね、癌に対しての治療的なレメディという以前に、癌という存在のあり方というものを非常によく説明をしているものでもあるんです。
実はCARCINOSINというレメディは伝統的に癌の治療にはあまり用いられていなかったんです。癌の患者さんにCARCINOSINを用いることはある種以前はタブーだった、禁じていたんですね。皆さんびっくりされるかもしれません。ホメオパシーをちょっとかじると、大抵の方がそれからちょっとして、どんなことを考えるかというと、あらゆる病気の組織からレメディを作ったら、それがみんなその人のレメディになるんではないかと大抵の方が思われるのです。そのように思われる理由もわかるのですが、ホメオパシーというのは単純にその病気のレメディを使いということではなくて、あくまでも似たものが似たものを治すということで、同じものが同じものを治すというわけではないのです。
この点について難しい話しをすると長くなるので、なぜ同じものではいけないかというお話があまり出来ませんけどね。ホメオパシーを最初に作ったハーネマンという方は、結局同じものだったら、ただ単にその病気の症状を倍化させるだけであって、ただ単に共鳴させるだけであって、それが激しくなるだけであって治癒的にはならない、だから非常に危険であると。特に、癌のようなものCARCINOSINを癌の患者さんに使うということはその方の症状というのは、ただ治癒的ではなくて激化させるだけであると、そういう風に考えていて、ハーネマン自身は、そのような理由で病気の組織からレメディを作ることは一切していないのです。
- マヤズム≪MIASM≫
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ハーネマンは慢性病をなんとか治そうとした時に、ハーネマンは、急性病は非常に上手く言ったんでんですけれどもなかなか慢性病は上手くいかない。そのときいろいろ試行錯誤した中で、簡単に説明しますと、「人間にはマヤズムという奥深いものがある、それがある種のブロックをしてなかなか慢性病が上手く治らない、慢性病を治すということは、ある種、解体していかなければいけない。自発的に解体するようなそのようなレメディというものを投与していく必要がある」と考えたわけなんですね。
マヤズムには3つの基本的なものがあると言われています。一つにはPSORA(ソーラ)、これは、疥癬マヤズムといわれますけれども、皮膚疾患に非常に関係するレメディ。二つ目は、SYCOSIS(サイコーシス)、現代的には淋病的なそういうふうなマヤズム。最後にSYPHILIS(シフィリス)、梅毒。この3つがあるわけです。これらは多少それなりにどれも性的なことに関係します。いわゆる淋病、梅毒、です。突然、いわゆる性病みたいなものが出てきてね、一体それはどういうことなんだ、と思われると思うんですが、今日はそこについてはあまりご説明ができませんが、ごく単純なことでいいますと、
1)PSORAは何かとても足らない感じ。Lack。
2)SYCOSIS というのは足らないことへのある種の反動、足らないので今度は逆に反動で過剰Excessになるんですね。
3)SYPHILISは破壊的Destructiveと申しますか、そういう風な大きな傾向があるんですが。まあこの関係性ですとか、専門的に勉強する時はいろいろあるんですけれどもね、ちょうど色の3原色みたいに、人間の中にある大きな傾向みたいなものがあります。そしてハーネマンの時代以降、一説によると、それにプラス結核のMIASMですとか、癌のMIASMが出来たといわれておりますが、これらはいずれもSYCOSIS と SYPHILISのこの合いの子のようなものであるといわれています。
SYCOSIS:何かを噴出する、過剰な感じ、そしてSYPHILIS:何か自己破壊的な、と申しますか、これは、その裏には完全性の希求というのがあるんですけれども、本当に完全でないものは存在する価値がない、存在する意味が無い、だからこそ存在する意味がないから、だから破壊しなくてはいけない。それが自分自身であっても他人であっても、そのように破壊的なそういう風なレメディーです。その裏にはある種の完全性の希求というのがあるんですけど、このTUBERCULINUMも特にこの2)SYCOTICな感じと3)SYPHILITICな感じの合いの子であるといわれているんです。
どういうことなのかと申しますと、ちょうどこれが、SYCOTIC っていうのは産業革命というものは、それまで人間の見解の範囲内でしか、いろいろなものごとが行わなれなかったわけですが、人間の範囲をもっと超えるような、そういうような道具を持ってきますと、人間の欲望というものもだんだんきりがなくなってきて、どんどんどんどん出来るだけ大量に、非常に欲が出てきて、とにかくその程々で足りるということを遥かに超えてゆくわけです。
そしてそのような、一方では大量の消費と大量の生産、大量の欲、そういうふうなものが片一方にあると同時に、今度は先ほど申しましたように完全性の希求と申しますか、ちゃんとやっていて当たり前、ノルマが達成出来てきて当たり前、つまり人間の持ってしまっていた道具の論理といいますか、道具というのはなかなか故障しませんから、本当は多少は故障しますけれども、だけども人間に比べると無理が利きますから、そこのところで機械的な価値観と申しますか、我々はそれに支配されてきて、初期的にはTUBERCULINUM的なものは、SYCOTIC な感じと SYPHILITIC な感じの間にだんだん生まれてきて、そしてそれがもっと激しくなる、もっと SYPHILITIC な、それが過度にいったような形として現われてきます。
この癌的なCancer MIASMというのが現在あるという様に言われていますが、ここでARSENICUMというレメディーを考えてます。まず、「秩序」ということですね。ARSENICUMというレメディーもレメディーノートにありますけれども、さっき自己と非自己の話をしましたけれど、とにかくあらゆることの秩序、秩序という観念に取り付かれているというぐらい非常に、何か「こうでなければいけない」そういう風なことが非常に強いレメディーです。
どんなことでも物事が非常にきちんときちんとしていて当たり前、そしてそうでないと非常に心が落ち着かない。そして人のあらを探す、自分のあらを探すと同時に人のあらを探す、そのような秩序観念にいつも取り付かれていて、そして微細なレベルにいたるまで、そのような神経というものをいつも注いでいます。
ここで判るのは、SYCOSIS というのはExcess(過剰)でしたね、そして腫瘍と言うのは、こういうふうに出来ますよね。
淋病というのはジクジクと盛り上がってくるものですけれども、それに対して梅毒というものは自分を削っていくわけですね。この二つは有る意味では、相反するものですよね、ちょうど逆の方向性、癌というものはある種のdisorderだと言われるわけです。コントロールがつかなくなってくる、正常な成長から何らかの理由によって、そのコントロールが効かなくなってくる、ちゃんとした循環が行われなくなってコントロールが出来ないような、そういう状態に陥ったもの。というふうにも定義されているわけです。まさに過剰と破壊というか、ちょうど逆の動きというものが、自分の中に両方あって、そしてそれが上手く循環しなくなってくる、そういうところから、ある種のdisorderができるという風に考えることも、ある意味では出来る訳です。
- ARSENICUM
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このレメディは、とにかく秩序ということにとり憑つかれていて、そして花粉症セミナーでもお話しましたけれど、人間の正常な成長というものは、本来は非自己、「自分で無いもの」を取り込んで、そしてそれが自己、自分自身になっていく、ということ、それは人間の正常な成長のあり方です。それは食事に関しても、空気に関しても、あらゆる面で自己と非自己が同一化していって、そして非自己を自分に取り込んで同一化して融合していく、そのものが正常な成長ということになってくるわけです。
しかし、そこのところであれもこれも自分じゃないとして峻別して、拒絶、排除をしてしまっている状態、これは本来の姿ではありません。これは、ある種非常に矛盾的と申しますか、それが無ければ自分は成長できないわけですからね。何を取り込んで何を取り込まないようにするか、いわゆる免疫のシステムともいえますが、何でも取り込んでくればいいというわけではない、自己の保全に対して、非常にまずいものを取り込むわけにはいかない、だからここでいわゆる免疫のシステムとして、非自己として認識したものは排除的な方向になろうとするわけです。そして、そこのところは非常に精密に精妙に行われていて、結局自分に対してプラスになるものは上手く取り込んで、マイナスになるものは上手くある種排除するということをする中で、自分の成長を遂げてくるわけです。
しかし、そこが上手くいかずに何を取り込めばいいのか、何をきちんとすればいいのか、何を排除していけばいいのか、何は取り込まなければいけないのか。それは簡単な問題ではないので、ちょっとDisorderがおこると、どんどんどんどんそこでの不調和が起こっていくわけなんですね。ARSENICUMというレメディは自己目的的なレメディでもあるわけなんですね。どんなことでも、何かにとり憑かれると、そのことだけに頭がいってしまって、本来なぜそれがあったのかということ、つまり非自己に対しての排除についても、確かにいわゆる病原菌に対してそれを排除する、でもそこで自己目的的になるということは、排除するということは、もうどんどんそこに特化していってしまうということなんですね。
本来なぜ排除しようとしているのかという、大きなところがだんだんぽっかりとなくなってきて排除ということに、すごく集中してくるんですね。とにかく自己と非自己の峻別、本来は自己と非自己というものが上手く融合してくるようにする中で、ある種排除というものもその中に入ってくるんですけれど、そこのところがだんだんおかしくなってきて本来の大きな目的というものを失ってきて、とにかくなんらか排除するということに特化する、自己目的的になる。そこである種の、暴走するということが起こってくるんです。
ちょっと抽象的になっていますが、少し分かりにくくなっているでしょうか?大丈夫でしょうか?
癌の患者さんの中でも確かにこういう方がいらっしゃるんですね。思っていたほどは多くは無かったのですが、でも確かに「自分は今まで人生を生きてきて、自分は癌になるべくしてなったんだと今思っています。以前、自分はすごくキチキチして、こうじゃなきゃいけない、こうでなきゃ絶対に許せない、そういう風な気持ちが非常に激しくて、うまくやってくれない人に対して非常に攻撃的に何でこうしないんだ、と、ちょっとでも自分のいったことを守ってくれないとガミガミ言ったり、やっていた。部屋の中にちょっとした埃があるだけでとても気になっていたし、非常に人に対して悪いことしたかなと思うことが随分ある。自分の在り方というものが癌になったんではないか。」と、こういう風によくお話になる方もいらっしゃるんですけどね。それはともかくとして、このような方が癌との関係性が深いことは確かですね。一般的なことでも、こういう人は癌になりやすいとかね、通俗書などにも大抵そういう方のことがのっています。
- STAPHYSAGRIA
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このレメディーは、本質的には何か自分を積極的に防御しようというふうな方向性はもともとあまりなくて、とにかく何かが入ってきた後で、何かが入ってくる前から嫌々をする、そういう風な神経というのは無いんです。まずどんなことでも受け入れる、受け入れるという意識もない、入ってきた後で自分にとって受け入れられることならもちろん喜んで受け入れるんですが、受け入れられないと思ったら絶対に受け入れられないんですね。そして非常に受け入れたつもりも無いのに侵入されたことに対して屈辱に感じて、なんとかそれを自分から出していきたい、となる。そこでものすごい怒りが起こるんです。「何であの時、何も言わずに受け入れちゃったんだろう。」自分に対しても相手に対しても、ものすごい怒りが出てくる、そういうふうなレメディなんですが、このSTAPHYSAGRIAも癌との関わりが深いレメディです。
何か起こったことを自分の中でいつまでも、自分に一旦付いた色をなんとか拭い去りたい、というような感じなんです。でも自分で拭い去る手は持っていないんです、ただこれをどうにか出したい、というその気持ち、とにかくこの色を何とか拭い去りたい、というものすごい怒りに駆られる。でも相手に対しては、直接あまりいえない。様々なことに、ものすごく、多少ヒステリー的な状態、まあ、怒りが爆発するということがたまにあります。これも、Excess(過剰)とDestructive(破壊的)のある種、合間にあるわけです。
怒りというものは、ものすごく膨れ上がってくるんですね。膨れ上がってくると同時に、自分自身に対して、なぜあの時にこうしなかったんだろうと感じています。そして、相手に対してものすごい怒りというものが膨れ上がってくると同時に、非常に破壊的にDestructiveな相手の存在自体を抹殺したいぐらいの、そのぐらいの怒りのエネルギーが湧いてくるんです、そしてそれがなかなか消え去らない。何かをいつもくよくよ、そのことをずっと考えている。その様なSTAPHYSAGRIAというレメディもあります。
- NATRUM MUR.
- 岩塩のレメディーですが、非常にsensitive傷つきやすいと申しますか、あまりにも傷つきやすいので、裸でいるわけにはいきませんから、なんらか自分を守るように自分の周りに壁というものを作らざるをえない。その壁の中で、他人と直接、生の交流をせずに、いろんなことを考えている。詳しくはレメディノート(参照)を見ていただきたいと思いますが、このレメディもずっと過去の納得できない様々な出来事を、くよくよくよくよ考えていて、特に自分自身を削っていくような、そのような方向性というものがあるわけです。何かをずっとくよくよ考えていますと、あらゆる癌に関係するレメディはそうなんですけれども、どこかしら、自分自身を非常に批判をして、他人に対しても批判を含まれますが、自分に対してとても何か自分自身を傷つける、そのような方向性を持っているものが多いんです。
- 過度に自分を批判し傷つける、そういう傾向
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例えば我々はなんとなく、他人を批判する、傷つけることは良くないことだけれど、自分に厳しいということは、人間として立派なことである。というような意識というのが一般的にあると思います。それは、理想的には他人に優しくて自分に厳しいというのが立派な人間の生き方であって、その逆に自分に優しく他人に厳しいということは人間としてあまりよろしくない。という意識を持っておりますが、ある本には「自分に甘く人に厳しいと長く生きられますよ」と書いてあったりするわけです。これはある種ぜんぜん真実ではないというわけでは必ずしもないところもあるんです。自分に厳しく、ということは確かに立派でないことは無いのですけれども、その時、では、他人に対して優しく、自分に対しては不当に厳しいというのは本当にそれが正しいことなのかというと、必ずしもそうではありませんね。
自分自身も他人と同じなんですね、他人と同じように、自分も他人と同じく愛すべき一人の人間なんですね。自分以外の人間に対しては優しく、そして自分に対して厳しい、ある種、自分自身をいじめるって、ちょっと言い方がきついですけれども、やはり一人の愛すべき人間を不当にある種虐待していると同じことなんです。自分に対してある程度寛容になるということが必要だと思います。
ただ単に長く生きるということではなくて、寛容になるということがどういうことなのか、と言いますと、人間誰でも良からぬ、まずいことがあったり、してしまったりもします。そして、まずいことがあればそれを直していかなければいけないわけです。けれども、どんな人でもそれをしたということは、良く考えると、その時は、本当はそれしか出来なかったはずなんです。よ〜く後になって考えて見ますと、あの時、こう出来たのに、ああ出来たのに、というふうに我々は想像します。しかし、もっと良く考えてみると、本当にそのときにそうできたのかと考えてみると、本当はできなかったんですね。出来なかったから、自分がしたようにしたんです。どんなことでも自分のしたこと、他人であってもそうなんですがそのときには本当はそれしか出来なかったので、だからそうしてしまったのです。
もちろん後から考えて、あの時はこうすべきだったと反省をしたら、次からは確かにそうしなけばいけないんですけれども、でもそのときにはそれしか出来なかったということなんですね。これは自分であろうが他人であろうが同じですね。他人に対して寛容にあるとするならば、自分に対しても同じことであるということ、なんですね。ここのところは非常に重要なところで、自分に厳しくということが無条件に立派なのではない、素晴らしいことでは本当は必ずしもないです。
自分という一人の愛すべき人間を不当におちいれて、不当にいじめて、意味なく、不況に立たせている、そしてその結果として、あまり意味なく自分自身をどんどん削っていって、そして様々な病の状態にしているということでもあるわけなんです。
- 癌と喫煙との関係
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タバコのパッケージにも、ヨーロッパやアメリカではかなりきつい書き方をしております。確かに、喫煙者と肺がんの方の相対関係には顕著なものがあって、確かにそうなんですけれども、タバコ自体がそれを起こしているのかどうか?ということなんですね。ホメオパシーでは、確かに煙草ということも考えますけれども、なぜ煙草を吸わずにはいられないのか、ということなんですね。そのタバコというものは、人によっていろいろあると思うんですけれども、ある種息抜きだったり、ある種のリズムだったり、とにかく煙草をずっと吸っていた人が、いきなり止めると、ものすごくおかしくなりますよね。タバコである種のバランスをとっていたわけですね。煙草を吸うことは吸う人にとっては、ある種の癒しなんですね。例えば、いらいらすると煙草を吸う、イライラすると食事をする、ある種それは癒しという風に言うことが出来るんです。しかし、それがどのような種類の癒し、循環のひとつか、ということなんです。その人がどんな循環の中にあるのかという、パターンの問題なんですね、結果として自分を傷つけやすいようなものによってしか癒しを得られないような、煙草とかお酒とかある種自分を傷つけるんだけれども、ちょうど痒い時にかくということは、ある種自分を傷つける、ある種の癒しです。しかし、それがどういう風な癒しなのか、でも掻いて、かきむしるとだんだんひどくなり広がっていきます、でもそれをやらないではいられない。煙草にしても過食にしても、どんなことにしても、その方のなんだか上手くそのままではバランスが取れないのでそのような何かが必要で、その何かが自分をより傷つけていくような、Syphilitic(破壊的)な方向性そのような何かを必要とするのか、それともそうではないようなことによってうまく循環していくのか、人によって様々あるわけです。
煙草と癌との関係が深いということ、そのものは確かにそうだと思いますけれども、それは単なる、ものによって起こっているだけでは決して無いというふうに考えているわけですね。ただ単に煙草を止めるだけで確かに辞めようと思って辞められるのだったら、その程度の循環ということです。そして、ホメオパシーのレメディによって何が変わっていくのか、何が変っていき得るのかということでは、その循環、流れがだんだん変っていって、知らない間にあまり必要でなくなって、煙草でないものによって、自分の中の平安というものが得られていきやすくなっていく、ということが起こります。
例えば、それに変わるものがないにもかかわらず煙草をぱっと取り上げる、お酒をぱっと取り上げると、そうするとまた違うストレスが沸いてきます。そのストレスがその人にとって決して良いものではない、もしかすると煙草を止めることによるメリットよりもそのストレスのほうがもっと大きなものでありうるかもしれないわけなんですけど。つまり全体的なエネルギーの流れの中で考えていく必要があるわけなんです。
- Autonomy
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- オートノミー=《同義語》自立的増殖
- 腫瘍の固有の性格の一つに自立性がある。これは、腫瘍は宿主(ヒトの腫瘍であればヒト)の統制から独立して腫瘍事態の統制のもとに増殖することをいう。この自立性により、悪性腫瘍は宿主と関係なく無限に増殖し、良性腫瘍ではある一定の大きさになると成長を止める
後半のQ&A
Q:最後に先生がいわれました、癌は治る治らないじゃなく、又腫瘍が消える消えないではなくて、癌になったということをどう捉えて、自分の間違った生き方を壊すための病気であると、私もそれはすごく解ります。但し、先生は帯津病院で腫瘍が消える消えないということではないんだよ、ということを、ホメオパシーを受ける患者さんにどんな風に説明されているのかな?と思っているんですけれども。
A:帯津病院で診た患者さんというのは、多分私が思うには多少特殊な患者さんだったんだと思います。まず帯津病院に来るということで多少特殊な患者さん、そしてその中でホメオパシーを受けようとする、そこで多少特殊だと思うのです。その特殊、というのはどういうことかと申しますと、極端に言うとこういう話は既にしなくても分かっている、既にいろんな試練を経ていて、苦しみを経ていて、また凄い色んな怒りとか理不尽さとか、自分は一体何をやったというんだ、なぜ何もしていないのにこんな罰を神が与えるのか、こんな事を自分にするんだとか、様々ないろんなことを、ずーと経て、そしてその後に何かがふっと、ある種何か憑物が落ちるというか、何かそういう風な感じになっていらっしゃった方のほうがずっと多かったように思います。ですから、このようなことについては、確かに全くお話をしていなかったわけでもないんですけれども、セッションをしている時に、患者さんから御自分で、そのようなお話をされるということがすごく多かったですね。何か説明をするというよりも、もうそういう風な中でいろんなことが自然に行われた、という感じであったと思います。ですから、一般的にいうと、多少特殊な経験だったと思います、例えば、一般的にはほとんどの方は、何か調子が悪くて病院に行かれたり、もしくは検診に引っかかって、訳が分からないうちに、いきなり手術とか治療が始まってしまって、その段階では何も自分で考える時間も無く、ただそれが起こってそして、その後いろいろ調べたりして、帯津病院へ行かれる方もいらっしゃいます。その過程の中で、様々なことがあって、それまで帯津先生からもいろんなお話しを聞かれたりして、既に濾過っていうと言い方が変なのですが、いろいろなものがだんだん濾過された後の段階の方が多かったと思います。こういうことというのは、ほんのたった一言で、持っていらっしゃっる方はすぐに解るような感じが致します。
Q:患者さんの一言ですか?
A:もしくは、私が何か一言、そんなような話をした、例えば治る治らないということじゃなくて、quality(人生の質)の問題も、そのことだけで、初めて聞くことでもなんでもなくて、ご自分の中でもう非常にもう分かっていらした、そういう感じを非常に受けました。
Q: 花粉症に比べると、ミステリアスに、深いところに、という言葉が印象に残ったんですけれども、よく使われるポーテンシーは、癌の場合と花粉症の場合とは、かなり違っているんでしょうか?
A:ホメオパシーではいわゆる病名というものが無いので、厳密に言うと癌という病名すら本当はホメオパシーには無いので、癌の場合にはこのぐらい、花粉症の場合にはこのくらいと必ずしも言えることではないんです。但し一般的には、高いポーテンシーを使うことはかなり慎重になります。というのは、すごく単純化しますとね、ポーテンシーの高さというのは、今日はお話していないのですが、その人のVITAL FOURTH(生命力)のレベルに合わせる、その人の生命力全体に合わせるわけなので、癌の患者さんの場合には、一般的にはあまり高いポーテンシーではやらない、むしろ低いポーテンシーでやっていくことが多いんです。しかし、ただ私は30C以下、6C、12Cとか、18Cですとか、低いポーテンシーでやらなければいけないという感じは受けませんでしたし、30Cというポーテンシーが、高すぎたと感じたことも一度もありませんでした。基本的には30Cでいいと思いますけれども、ただし私が診た患者さん達だったのでね、先程言ったように、多少特殊だった感じがあります。ですから、安全を期して低いポーテンシーを使われたほうがいいと思いますが、何か具体的にお考えになっていることがおありなのでしょうか?
Q:母が胃癌で6年前に切除をして、今のところ再発はしていないんですけれど、先程のお話を聞くかぎり、そうなるべくしてなったんではないか、という感じがあります。今でも、ストレスを受けたからこうなったとか、きちんとした食事をちゃんと摂っておけばよかったとか、まだこだわりをもっているんですけれども、そういう患者に対しての周りの者のあり方というか、それについてホメオパシー的アドバイスを頂けないでしょうか。
A:癌になられた方はいろんな意味で自己点検とか自己批判とか、こうしておけばならなかったのかな?とか、そしてどんどん自己に寛容でなくなってきたりということが起こったりするんですね。個別的なことで言いますと、まず胃癌で切除をして、一応今は再発はされていないということなんですよね。その時に、いろんな可能性というのがあって、この話を出すと、延々と続く話になっていくので、どうしようかと思うんですが、つまり一つはこれが本当の癌だったのかどうか、という事があるわけなんですね。これはまた近藤誠さんの考えの中にまたあることなんですけれど。
永松Q:お母さんの場合には何か具合が悪かったんでしょうか?健診だったのでしょうか?
A:突然出血し直ぐ病院に行って。
永松Q:病理では完全に癌だったのでしょうか?
A:多分。
A:いろんな場合があると思うんですけれども、例えば、それが本当に癌だったのかどうか、ということについても実はそこから、いろいろなお話が始まってくることがあるんです。現在癌に対しては早期発見、早期治療、これが最大の一番大事なことだということになっています。但し果たして本当にそうなのかどうか、ということに非常に大きな疑問があるんですね。検診っていうのも、100害あって一利なしというふうに近藤さんは言っています。その理由もいろいろ考えてみると、確かにそうかも知れないと思うようなことが、不幸にしてあります。本当は放っておけば、ただ単なるちょっとしたできものに過ぎなかったのに、癌というふうに診断されてしまって、もともと癌でないものを癌かもしれないということで切除してしまっったり、と言うことも起こり得るわけです。そして、結局その後再発してないといっても、もともと癌で無かっただけなので、でもそういったものも全て治癒率の中に入っていったりとか、そういう可能性も大いにあったりします。そういったものを近藤さんはガンモドキと呼んでいるわけなんですけど。ガンモドキという言葉にね、非常に敏感に反応して、ある医師会の中では「ガンモドキはおでんの中にしか入っていないのであります。」といって、拍手喝采があったという、そんなつまらない話もあるんですけれども、これも考え出すときりがないんです。つまり癌の原因になったかもしれないというものを上げようとしたら、もうあらゆることが、癌の原因になりえますよね。あらゆることがなりうるので、もしかしたら小さい頃のあの時お母さんにあの一言を言われたことから自分の癌の原因になったんだとか、そしてあの一言から自分の人生がこうなって癌になって、とかいくらでも自分自身を掘ることが出来て、その中ではいろいろと人に原因をどんどん投げつけてくることも起こってきたりとか、また夫が優しくないから、とかいろいろ出てくるんですけれども、このときに家族がどうするか?ということは非常に難しい、人生の難問の一つですよね。
これは、軽く、簡単には解決できない、と申しますか、例えばそんなのは全然関係なくて、気のせいでそんなことは関係ないよ、と言って冷淡にすると今度は結局はあなたのそういう態度が私の癌を作ったのよとか、当然そういう風になって行きますし、どうやってもそうやって難しくなってきますしね。結局は温かく、見守るということ以外にはないんですね。温かく見守るということは、ただほっとくというのとは全然違うんですよね。そういう風に自分で思うことそのものは、ある程度仕方の無いことなんですね。その葛藤の中でまた何かをご自分の中で築いたりすることも、またあるので、いろんな、意味の無い葛藤もあれば、意味のある葛藤もあれば、結果として。すごくいろいろなものが途中には出てくるんですけれども、結局のところ、どういう風なプロセスも、家族としてサポートするというか、支持するというか、とにかくどうなっても自分たちはあなたの味方、そういう風な気持ちでいて、難しいんですけれど、いろいろと攻撃してくるようなことも、もしかするとあるかもしれませんが、その時には無関心ではなくて、ただ温かくやり過ごすというか、あまり反応しない、ということが大事です。
家族とはものすごく関係性が深いのでね、具体的にいろんなことが出てきたりとかしやすいのですけれど。そうですね、お面白いものでね、相手が自分を攻撃してきたりする時も、ああそうですねと言っていると、段々段々、「それ見たことか!」ではなくて、逆にあなたにこんなことを言ってしまったけれども本当は私が悪かったんだ、と逆にそんな風になってくるので、その時に論理的に、それは違う、あなたはあの時こういったけれど、そうじゃないとか、そこで争っても結局何の意味にもならないですよね。そこじゃなくて、本当はそうじゃないかもしれないということは、ご自身の中で、どっかで分かっている。ですから、その時にそのまま受け入れてくると、だんだんその人はもう受け入れているわけだから、それ以上、何回も何回もいう気にならなくなってきて、受け入れているので、本当は自分がそうだったから、相手もそうだったのかな?と自分自身で段々思うようになるんですよね。こちらとしてはそれを本当は分かって欲しいというのがあるんですけれども、それは人から「解れ!」と言われて解るものではなくてね、自分で解ること以外ないんですね。
そして人から言われたことでね、正しければ正しいほど頭にくるんです。(笑)難しいことなんですけれど、受け入れていくと自然に、自分でわかるようになる。結局はこれは難しいんですけれど、それしかないと思います。
Q:ふたつお願いします。患者さん自身が自分の中に答えがあることが分からなくて苦しんでいる、ぶつけてもわからない場合、自分で解っていても、どうしていいか解らない場合、それはホメオパシーのレメディを摂ることによって答えを見つけやすくなるのでしょうか?又、もうひとつの質問は、先生のケースでは末期の方が多かったんですけれど、もう少し初期の段階、癌が見つかったばかりで、これからどのようなConventional(現代医療)をとろうか、悩んでいるような状態の方、見つかった段階でConventionalは無視して、ホメオパシーだけでいけるのか、それとも両方組み合わせることによるメリット、デメリット、こういったことをもう少し教えて頂ければと思います。
A:最初のご質問ですけれども、必ずホメオパシーでこうなります、というふうな言い方をすることは出来ませんが結果としてこういう風になりますということはしばしばあります。これはホメオパシーはどういうものなのかということを考えれば、結果として、そういうことがしばしばある、ということは当然の結末だと思います。それから、2番目のご質問ですけれど、帯津病院では、病院の中では確かにほとんど末期の方でしたけれども、病院以外では初期の方も随分とあります。
確かに現代医学的な治療をするのか、現代医学だけするのか、ホメオパシーだけするのか、両方組み合わせるのか、いろいろなお考えを持ってこられます。ここのところは、お答えするのが多少難しいところがあります。どういう風に難しいかと申しますと、私自身は最終的にはどういうことを目指しているのかというと、ホメオパシーとか現代医学とかの区別の無いと申しますか、その道理に基づいたことをするという、そこだけを最終的には考えているからなんです。
Conventionalといっても、一口にConventionalといっても、すごく様々あるわけなので、何を持ってConventionalというのかという、例えば、化学療法であったり、手術であったりする事を一般的にさすのだと思います。これは、簡単には言えないところもありまして、あくまでも第一にその患者さん御自身のことなので、その方が全体としてどういう風な位置にいらっしゃるのかということによって、いろいろ変わってきたりします。
これもいろんなケースがあるので、なんとも言いようがないんですが、例えば人によっては手術をすることを、必要とする人も時としてあるんですね。ただ単に医学的な見地より必要というだけではなくて、その人にとって、その人の魂にとって自分に大きな傷をつけることが、大事であったりすることが時としてあるんです。これは特殊な例だと思いますが、ある医師の奥さんにそういう方がいらっしゃって、どうしても手術をして欲しい、そうしてこんなにも苦しい思いをして病気になったことを夫や夫の親に、目に見える形で見せたい、そして、すごく手術をして救われた、と。そういう風な人もいらっしゃったりして、簡単に一概に言えることではないんですね。
ただ、私はホメオパシーと現代医学を何か対立的に考えているわけではないので、どっちかだけというような考え方はしておりません。といって、ただミックスして両方やればいいというふうなことでもないのですが。少し解りにくいと思うのですが、病と言うものはいろいろな道理によって出来るものなので、物の道理に従うということ、それだけを考えています。ちょっと抽象的になりましたけれども、いつもそういう問いかけは沢山あるんですが、その方の個別的な状況を全体的にお聞きして、お答えするようにしています。
先日こういう方がありました、脳腫瘍の方で、かなり腫瘍が大きくなっていて視神経を圧迫しています。検査で見ますと、もうとっくに目が見えなくなったり、体が動かなくなっていっても、失明しても不思議ではないぐらい圧迫していると言われるのだそうです。しかし自分はどうしても外科的な治療は受けたくない、どうしてもホメオパシーで治したいのだけれど、おっしゃる。しかし、3日目には決断しなければいけないので、どうしても今日診て頂きたいといって来られたんです。
お話をよくお聞きして、あるレメディを処方しました。その方の場合、一日一日すごく大きな意味を持っていましたから、毎日状況をお聞きしていったのですが、その後、お気持ちとしては、ものすごく落ち着いて、視野が広がった気がする。全体としてとても良くなっている気がする。その後、また検査に行かれて、少なくても腫瘍は小さくはなっていないと、その方はレメディを飲んだら劇的に小さくなって、小さくなっていたら、医者や家族を説得できて、手術しないと言えるんじゃないかとそれを願っていらしたのだけれど、そんな風に都合よく行くわけでは必ずしも無いのですね。でも医師が予告したというか、脅かしたと言うか、間違いなく、次は大きくなっていますから、そうしないと100パーセント失明します。と言われたわけなんです。でもそうはなっていなかった。大きくも小さくもなっていないんですね。
一週間後にも検査をした。結局はあるスピードで大きくなっていたものが、ホメオパシーのレメディーを摂ったあたりから、その動きというものはストップしたんですね。そして、じゃあどうするかということを考えたわけですね。その方は切りたくない、医師は最悪を恐れるわけですね。責任がありますから、最悪をさけたい、以前、もうちょっと大丈夫かな?と思った人が失明をしてしまったと言うことがあった。とにかく直ぐ手術をして下さいといわれた。その時どのようにお話したかと言うと、手術というものを、現代医学だという捉え方、言葉であまり考えずに、今日はホメオパシーとは何かというお話をあまりしていないので、ホメオパシーとは病の原因的エネルギーというものを根本的に解決していく、それを私はそのエネルギーが成仏するというふうな言葉を使って表現しています。その根本的に解決をしていって、自らがそのエネルギーというものを消滅していく、そういう風なことを成仏と呼んでいます。
おそらく病的なエネルギーというのは、もう成仏していこうとしている、というふうに感じていると、そうするならば、その中に残っている、ある種の残留物のような腫瘍というもの、確かに自然に退縮することもあるけれども、なかなか自分で自然に退縮できないものもあるんですね、ある種死んでいるんだけれども、それがどうやって上手く成仏するかということに関して、もちろん自然に退縮していけば、それはそれでいいんだけれど、それはある種、外に出て行かなければならないもの、ある必要が無いものなので、それをなかなか自分で自分自身を消滅させることが物理的には、もし出来ない場合は、なんと言うんでしょうか、手術というふうに考えないで、成仏させるひとつの方法として、そこにある意味がなくなっているわけだから、それを取り出してやるということも成仏になると、そういう風にも十分考えられますよというお話を致しました。
あまり手術とかConventional medicineとか、言葉で考えるのではなくて、要するに何をするのかということ、何の為に何をするのかという、そこだけで考えていきたいのです。
この方はだんだん実は退縮していっているんですね、でもそれは、もう手術しても構わないと思ったころから、退縮し始めたんですね。関係あるかどうかは誰にも分かりません。でも、そういうことが起こりました。
少なくてもこちらでは何か、対立的に手術はダメだよ、ホメオパシーだけでやりなさいとか、そういう考え方はしておりません。