ただ、同じ無限といっても一種類じゃないんです。実は無限には濃度というものがあります。それはどちらの無限の方が濃いかということです。そして、有理数の無限よりも無理数の無限の方が、濃度はずっと高いということが100年前に分かっています。同じ無限だから同じじゃないかっていうふうに、我々は何となく乱暴に考えますが、同じ無限といってもピンからキリまであるんです。そして、無限の濃度でいうと、無理数、いわゆる非合理的な数の方が、有理数の無限よりもずっと多いということなんです。

例えば私が刀を持っていて、ここに藁があるとします。藁なら、すぱっと切ることができます。では空気を切ってみたらどうでしょうか。どんなに切っても空気って切れないでしょう。このように、本当はこの非合理的な数の方がずっと多くなります。また同時に大事なことは、無理数は多いんだけれど、有理数によって定義されるということです。つまり無理数は自ら定義できない。初めから「ここが隙間です。」って言えないでしょう。私は隙間なんですって言っても、「いったい何と何の隙間なんだい?」となる訳です。有理数の場合は「私はここです。」ってすぐに言える訳です。私はこういう者です、と言える。そして、無理数は、私は何者ですとは言えず、有理数によってはじめて定義される。ですが、一旦定義された後は、無理数の方がずっと大きな世界であるということなんです。

無理数の方がずっと濃度が高いといっても、直感的には最初ちょっと分かりにくいと思います。というのは、有理数というのは、数学的には稠密(ちゅうみつ)であるっていうふうな表現をします。それは、どんなにでも隙間を埋められるというよりもですね、任意にその密度を高めていくことができるということです。つまりどういうことかというと、1.53214…もうここに1兆の桁を並べても1兆1兆1兆・・・ってどんなに並べることだってできる訳なんですよ。どんな数だって並べることができます。でもね、どんなに並べても隙間をなくせません。なぜかっていうと、これはどこかで終わっている数だからです。終わっている。だって、終わっていないと、確定できないですよね。例えばこれが1兆個あっても、そこで終わっているから、確定して「ここだ。」ってすぱっと切れる訳です。無理数はいつまでも終わらないので、いつ切ったらいいんだってなる訳です。切れない訳です。

だから、密度はいくらでも小さくなることができるけれども、どんなに密度を小さくしても、この隙間がね、あざ笑うように、絶対にゼロはならない。なぜかっていうと、どこかで終わってしまうからなんです。終わってしまうと、またその次の、その次っていうか、すぐ近くの数との隙間ができてしまいます。終わってしまったらとにかく必ず隙間が出てくる。

ここまで何かご質問ありますか。

Q:よく哲学の本なんかにあります、何々ではないとしか表現できないことというのがあって、それが非合理数的なことかなっていうふうに思うんですけれど、どうでしょうか。それから、ちゅう密ということがよく分からなかったんですけど。

そうですね、何々ではないという形でしか表現できないもの。それはとてもいい指摘です。これはまた量子のことと関係もしていくんですけれども、そうですね、さっきのハイゼンベルグがそのことをこういうふうに言いました。「私はキリスト教を信じている、と言えば、それは言い過ぎである。しかし、キリスト教を信じていない、と言ってもやはり言い過ぎである」というふうな言い方をしました。

そうですね、言葉というもの、言葉とはいったい何か、ということと結局は関係してくることなんですけれども、その言葉の有用性とその限界。それから、言葉はですね、実は言葉イコール我々の世界そのものでもあったりするんですけれど、また、我々は言葉によって支配されます。知らない間に、その言葉自体が持っている構造というか、言葉自体が持っているオートノミーというふうにも言いますけれども、ある種の自己目的的な力と申しますか、例えば勝手に言葉が言葉を呼ぶようなことに、我々はどこか支配されている。そうして、ありのままを見れなくなります。

もともと言葉っていうのは、どのような言葉でも通常は一つの方向性しか示せません。我々は何かを言い表したい時に、例えば「強い」というときに、強いという方向性しか示せない。同時に弱いというふうなニュアンスは入れられないですよね。でもよく考えてみると、例えば「あの人は強いです」と言った時に、あの人と強いっていうのはイコールになるかというと、もちろんイコールになるわけじゃないですね。本当はその人の中にいろんなところがあって、その中の、ある一つの側面をたまたま強いという言葉で言い表したに過ぎない訳です。

ある表現をしようとしている言葉によって、表現しようとするある種の実体というものがあり、結局何を表現しようとしているかっていうことなんですけれどね。この言葉の問題というのは非常に深いテーマで、結局のところ最終的には言葉ということにも尽きてきます。

今からちょっとはしょって言うようになりますけれどもね、フランス的な大陸的な哲学と、イギリスの哲学とは、まるで全く違うもののようになってます。例えば、フランス的な哲学っていうのは、皆さんが通常よく耳にするような哲学です。昔からのね。要するに人はどう生きるべきであるかとか、世界はどういうふうにできているかとか、そういったことをこうだああだってやっていくような哲学なんです。

イギリス的な哲学っていうのは何かっていうと、結局のところは言葉の定義をしていく訳です。定義をします。通常の哲学のように我々は、ああでもないこうでもないと言っているけれど、結局何をしているのかというと、例えば「生きる」という言葉の定義をするということですね。例えば、存在という言葉のその存在っていうことを、存在という言葉をいろいろ使いながら、分かったようなことを言っているけれど、それでは意味がない。なぜかっていうとね、その言葉の定義そのもの、その言っていることというのは、最終的に何をしようとしているかっていうと、定義をしようとしてしゃべっているたくさんのことというのは、結局は単なる説明に過ぎないっていうことなんですね。

ただ、それがちょっと形式主義的なことになってきて、形式論理学みたいにもなっていっているんですけれども、ちょっとその話は置いておきまして、さっきおっしゃったことというのは、例えば禅的な思考においては、あらゆるものは、「これである」というような定義付けができない、結局は物事の実相というのは、これでもないあれでもない、AでもBでもCでもDでも何でもないといったその何者でもない何か、というものが実相である。結局そういうことになってくるんですけれどね。だから全て否定から始まっていくというふうに。つまり否定というのは、そのものを否定するってことじゃなくて、結局は初めからこれっていうふうに言うことはできない。あれでもないしこれでもないって言ったところ、しだいに浮かび上がってくるということですね。だから先ほどのご質問はとてもいいご指摘だと思います。そのことについても、何回目かに話をしようと思っています。

 

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