皆さんからとてもいいご質問とかご感想とかご指摘などがあって、とても嬉しいです。

そうですね、先ほどアナログとデジタルの話をしました。最初にデジタルの録音ができたときに、音楽マニアの人たちには、非常に拒否反応があったわけですね。とてもありました。このデジタルの音にとても違和感がある。何かその、不自然な感じと言うか、これは本当の音じゃないというか、テイストというか…何かが違う、何か気持ち悪い、そういう感じでしたよね。今でもそういうことを感じている人はいますけれども、当時よりは随分と少なくなったと思います。どうして少なくなってきたのかというと、まさにそれはね、さっきの「精度」と関係するんです。

まずね、アナログ録音というのはどういうことかというと、とにかくダーッとみんな録音されている。とにかく全部が記録してあるんです。まあ、その録音にもね、いろんなレベルがある訳なんですが。

そして、デジタルになった時に何が違ったかというと、非常にクリアだった訳ですね。とてもクリアで、ノイズがない訳です。さっきね、アナログの話をしましたけれども、アナログ録音には当然いろんなノイズも入っています。ノイズっていうのは、どこに入ってくるかというとそれこそ、隙間に入ってくる。で、音量を上げていきます
とね、そのいろんなノイズの音量も上がったりする訳なんです。

デジタルになりますと、基本的にはね、ノイズはない。なぜかって言うと、音を全部デジタル化するというのは、音を粒子的にする、ある意味では点描画のようなものにすることなんです。全部ね、ぽんぽんぽんと、こう点で捉えるようなものです。で、とにかくデジタルになった時に、ノイズがない。非常にクリアである。これはもう非常に顕著でした。

だけども、音に敏感な人はね、非常に気持ちが悪かったんです。不自然だから。隙間に入っていた音が、ノイズと一緒にみんななくなっちゃった訳ですね。だから本来あるべき音が、ない訳です。聞こえない。それは生理的にとても気持ち悪い。人間の感覚というものは、非常に精密で微妙です。音にうるさい人たちというのは、非常に微妙なニュアンスをみんな聞き分ける訳ですからね。そのニュアンスがごっそり抜け落ちちゃっているので、とても気持ちが悪い。

でもまあデジタルにはとにかく、ノイズがないという、アナログにはない非常な長所がある。そういうことでどんどんデジタルが伸びてきて、そしてね、同時にその稠密(ちゅうみつ)さの精度も、例えば以前はそれこそ1、2、3…というふうな感じに飛んでいたものが、1.11いくつというふうに、高くなってきました。一個一個の音と音の間の、例えばその隙間がですね、1から2に飛んでいた音の隙間が0.00005ぐらいとか、まあそこまで行かないにしても、そういうふうな密度でほとんど連続的というぐらいに、もとの音をかなり再現できるようになってきた。拾う音の、先ほどの例でいえば「点描」の密度がね、どんどん上がってきたということですね。ですから、昔に比べるとあんまり違和感がなくなってきている訳です。

でもまあ面白いのがね、これはさっきの連続性ともまたちょっと違う話なんですが、一時ね、古い録音のデジタル化ってすごく流行ったんです。私が知っているのはクラシックの世界だけなんでね、他の世界はどうか分かりませんけども、今から30年から50年、あるいは70年前の伝説の指揮者、伝説のピアニストたちの演奏、当然アナログ録音なんですけども、それを最新の技術でデジタル化するということが盛んに行われました。昔の録音には、実はものすごくたくさんの情報が本当はつまっていた。けれども、当時の技術ではそれをちゃんと再現しにくかったんですね。で、それを最新のデジタルな機器でやると、ノイズなく昔の音のいいところだけを拾うことができる。それでね、昔の録音が、信じられないぐらいクリアに、高いクオリティで再現されるようになったんです。そして当分の間ね、昔の録音のデジタル化っていうのが、随分流行ったんですね。まあそういったこともありました。

こういったことは、必ずしもさっきから言っている、高度なレベルでの合理・非合理の融合ということではありませんけれども、でもなかなかね、面白い例だと思います。

そうですね、先ほど少し、rational、この言葉の語源は何でしょうかというご質問がありました。rational。私も言語学者ではないのでね、本当のところは分かりません。ただこの間、この間というか以前読んだ本の中に、この語源がいろいろあるということが書かれていました。このrationalの中の「ratio」、ラテン語ではラティオ、英語ではレイシオっていうふうに言います。英語でratioというのは、「割合」という意味なんですね。例えば、おたくの会社の人件費が総売上に占めるratioは何%ですか、っていうふうに言います。これは本来、「割合」というより「分割する」っていう意味なんです。分割する。分割するとね、確定します。これは全体を何らかに分割していく、そういうふうな動きですから、「切断」っていうこと、当然そこにつながっていく訳です。

ただそうですね、さっきどなたかが、武士の話をされてましたよね。武士の話。私も、武士道の話を授業の中で時々するんです。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という、まあ有名な言葉がありますよね。その時の「死ぬこと」っていうのは一体何かということです。表面的には、いつでも主君のために死ぬ覚悟はできている、なんていうことなんですよね。表面的にはね。だけどもそんなことがね、まあそんなつまらないことがって言ったらあれですけども、そんなことがね、ただ単に意味されているだけではなくて、実はそこには非常に重大な意味が、本当はあるというふうに考えているんです。

どういうことかというと、その「死ぬ」ということ。「死」とは一体何かなんですね。 死って何でしょう。

Q:切断。

うん。そうですね。もちろんそういうふうに言うこともできます。はい。では死と同等の、もしね、仮に量があるとするならば、死と同じ量を持っている、死と同等のものって何でしょう。そうですね。生。つまり、死というものは、生全体を表しています。

これは、単に言葉遊びのように言っている訳ではないんです。先に結論を申しますとね、今この瞬間にあなたがやっていることは、あなたの全存在と等価ですかっていうことです。つまりね、まあ我々いろんなことをしますけれども、今していることとあなたの全存在と等価なのか。今あなたがしていることは、あなたの全存在を懸けてしていることなのかどうか、ということなんです。と、分かりますでしょうか。

言いかえればですね、この一瞬一瞬において、自分自身がその瞬間瞬間に、自分の全生をそこに懸けているのか、それはあなた自身なのか、自分自身なのか、100%自分自身がそこにいるのか。

またそれは同時に、一瞬一瞬において死んでいるかっていうことなんです。死んでいるっていうことはどういうことかというと、一瞬一瞬において、あなたは私は、本当の自分自身でいるのか、これが私ですというふうに、何の言い訳もなく、それが本当に私自身なのかということなんですけどね。自分の生の全存在、濃度100%。例えば、私は今これをやっている、本当はやりたくないんだけれども、でもあの人がこういうふうなことを言うからまあ仕方なく一応やっているんだけど、本当はちょっと違うんですとかね。そこにはその人の全存在100%は全然いない訳です。そう言う時ね、その人の存在濃度はふっと薄くなる訳です。存在濃度30%、20%、10%…その人はそこにいない、その人じゃない訳です。

Q:例えば先生、瞑想していると時々、瞑想状態に入りますよね、そうするとあの、とてもいろんなところに自分の気持ちが飛ぶんですね。瞑想しているのに関わらず、何か関係ない明日のお弁当のおかず考えてみたり、子供のこと考えたり。そういう時って今ここにいない。瞑想しているのにいない。そこにどうしても行っていて、それを戻そうと思うとまた違ういろんなものが出てくるっていうのは、これはそこにいないっていうか、存在はもう瞑想の時にはないということですよね。でもやり続けていくと、もっと何か丸ごと一つになる時、何かもう本当にえらい気持ちが良くなるっていうことですね。すみません抽象的で。

いえいえ、そうですねえ。いい例だと思います。

Q:濃度100%ということで言えば、人を100%愛した時、そういうエネルギーが出るみたいですけど。

100%愛した時。そうですね。本当はその、100%と言ってもどういう100%なのか、100%でもいろんなレベルがあって、いろんな例が、たくさん出てくる訳ですけれどね。

 

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