だけれども、いわゆる科学者というのはね、そのキーがまだ分かっていなかったら、「何のつながりもない、科学的に証明されていない、だからそんなことをするのは何の意味もない」って考える訳ですね。「でも、やってみたら違いますよ」って言っても、「そんなものはおまじないだし、迷信だし、プラシーボ効果もあるし、本当は科学的に何の意味もないんだよ」っていうふうなことをとても得意に語ったりする訳なんですね。その物事の論理とか筋道っていうことについてほとんど何も考えたことがないので、極めて非科学的な、素朴で幼稚な考えに留まってしまう訳なんです。ですから、いわゆる科学者っていうのは、実はとても幼稚な状態にある。科学というものを本当に考えたことがほとんどない。そして、その科学のその要件、単に自分や周りの人とか先輩とかが「科学ってこういうことなんだ」と思っている、取るに足らないつまらない要件を、科学の本質だぐらいに思っている。
例えばね、「科学的であるためには、再現性がなければいけない」…例えばこんなようなことを、とても分かったような感じで言う人がいます。一回起こっただけなら単なる偶然かもしれない。何回も何回もやって同じことが起こるなら、それは一応、科学的に認めてもいいと言うんですね。だから、厳密な科学であるためには再現性がなければいけないし、一回起こったことだけのことには意味がないという訳です。こんなこと、別に誰が決めた訳でも何でもないんでけどね。再現するかどうかということ、これは本当はね、「再現」とはいったい何を意味するのかということから、きちんと考えていかなきゃいけないことなんです。でも何となく、「再現性」と言うとなるほどって思うでしょう。何となく語感的にね、とても何か科学的な感じを受ける訳です。
でもね、最も厳密に言いますと、この宇宙の中で厳密に再現するものって、本当は一つもないんです。本当は一つもありません。でも、その「本当は」というところから行くと少し話が難しくなるので、すごく簡単な話をします。現象には「再現性」がなければいけないのか、「再現性」がなければその現象は科学的に証明できないのか、ということですけれど…例えば、Aさんの人生は、再現できるでしょうか。Aさんが生まれてから今まで、全く同じことをこれから再現できるでしょうか。Aさんの人生には「再現性」はありますか…もちろんできません。Aさんの人生は再現できないから、Aさんの人生は証明できない。だから、Aさんの人生は存在しない、と言えますでしょうか。言えないですよね。
本当はね、厳密に言うと、この宇宙で起こることは、実は一回しか起こらないんです。そして、あらゆることについて同じことが言えます。そうしますと、こういう反論があるかもしれません。例えば物理の実験とかは再現しているじゃないか、とね。でも、それも程度の問題なんです。例えばボールを放り投げると、放物線を描いて落ちます。もう一度投げると、同じような、確かにだいたい同じようなことが起こります。だけれども、厳密に100%全部同じことは一度も起こらないです。絶対に起こりません。同じというのは程度の問題で、「同じ」の精度を上げていくと絶対に「同じ」ことは起こってないんです。そんなことはあり得ない。ボールは物体で、放り投げるときの他の条件も割と単純なのでね、厳密には「同じ」じゃないんだけれども「だいたい近いような」ことっていうのは、確かに起こります。だけれども、この宇宙の物事というのはそんなに単純なことだけではないですよね。例えば、生物というのは非常に複雑です。人の人生というところまで考えていくと、再現するはずがないんですから、すぐにその考え方の馬鹿馬鹿しさはわかりますよね。だけれども本当はね、生物、人間のようなものでない生物でもね、本当は厳密に言うと、再現性というのは全然ない。一回でも起こったことが極めて重要な出来事であるっていうことは、生物の世界ではある程度認められ
ています。ある程度ですけれどもね。
今お話してきたように、いわゆる「科学的」と言われていることについて一個一個ね、「それは本当に科学的なんですか」「それはいったい何を意味するんですか」…っていうことをね、本当にきちんと考えていくと、いわゆる「科学産業従事者」が考えているような「科学性」というものは、本当に考え抜いて作られたものではないんです。ほとんどは、単にせいぜい「感覚的に」「何も考えずに」考えついたようなことに過ぎないんです。ですからね、本当の「科学者」っていうものはほとんど存在しない。ほとんどいません。それよりも、いわゆる文科系の方々の中に、真の意味の「科学者」がもっとずっとたくさん存在します。まあ、それについてはね、またゆっくりお話をしていきますが、少し休憩を入れたいと思います。