それではですね。おいしいコーヒーとおいしいケーキをいただいて、今から少し若干眠気が加速して、時々はあの世に行ってしまうかも分かりませんけども、まあまた今度、あの世・この世の話はいたしますけれどもね。本当はあの世この世というのは 、どこか別々にある訳ではないんですけどね。まあ、あの世については、また今度お話しいたします。

さっき科学の話をして話が固くなりましたので、少し文科系の話をします。先ほど(※1)ね、「部分と全体」っていうハイゼンベルグの本にとても感銘を受けたという話をしました。その本の中で、物理に関係する箇所でもとてもすばらしいと思ったところはたくさんあったんですが、哲学的にね、すばらしい、非常に考え抜かれていると思ったところがたくさんあるんです。その中でね、特になるほどと目を見開かれたところ、何度読み返しても感銘を受けるところを少しね、抜粋的にお話ししたいと思います。

よくね、「手段」と「目的」って言うことがあります。例えば、とてもすばらしい「目的」を持っていると。とてもすばらしい「目的」はあるんだけれども、それを実現するために現実的にはいろんな難しいことがありますね。それで仕方なく、その「目的」を達成するために、今はちょっと非常的な「手段」を取らなくてはならない、というふうなことを何となく我々は、そうかも知れないというふうに考えたりする訳ですね。私も、この本を読むまでは、何と申しますか…「目的」さえ良ければ「手段」は何でもいい、という訳ではないけれども、でもやっぱりそういうことはあるんじゃないか、というふうに思っておりました。

でも、この本を読んだ時に、がーんと頭を打たれたような感じがしたんです。それはですね、ちょうど彼がアインシュタインの講演に行ったときの話です。その講演のね、会場の入り口の扉付近で、当時のナチスの青年たちが、赤いビラを配っていた訳なんです。で、その赤いビラにはね、どんなことが書いてあるかって言うと、「アインシュタインの相対性理論というのは、ドイツの人間には無縁なユダヤ新聞の誇大宣伝によって厚顔にも過大評価された、全然不確かなスペキュレーション(まあ単なる推測、というような意味です)を取り扱っているだけだ」と。まあ、そんなようなことが書いてあった訳です。で、

最初の瞬間私はそのビラは、このような学会によく現れる気狂いの仕わざに違いないと思った。しかしそのビラの発行者が、実験上の重要な研究業績によって高く評価されている人物であり、ノーベル賞を取っている人物であり、ゾンマーフェルト(っていうまあ先生ですけども)が彼の講義でもしばしば名前を挙げたことのある物理学者で
あることを知らされたときに、私の最大の願望は粉砕されてしまった。なぜなら私は少なくとも学問というものは、ミュンヘンの内乱でいやになるほど知らされた政治上の意見の争いからは完全に遠ざかっていると確信していたからであった。ところがここで私は、性格が弱かったり病的な人間を通すと、学問的な生命さえも悪意のある政治的な激情によって汚染され、歪められうるものであるということを見たのであった。言うまでもなくこのビラの内容は、ヴォルフガングが私に折にふれて説明してくれた一般相対性理論に対するいろんな私の疑念を払いのけ、いまやこの理論の正しさにかえって確信を持たせることとなった。

…この次からです。

というのは、私はミュンヘンの内乱の経験によってすでにずっと以前から、政治的な方針は、大声で宣伝したり、あるいはおそらくは本気で達成しようと努力している目標によって決して判断すべきではなく、その実現のために使用される手段によってだけ判断しなくてはならないということを十分よく学んでいたからであった。不正な手段を使うということは、その張本人が自分の主張の説得力を、自分自身でもはや信じていないということの証拠に違いないのだ。

つまりですね、不正な間違った方法を使うってことが何を意味するかというと、実はその張本人自身が、自分の言っていること、一応本気で実現しようとしているところのその「目的」っていうものを、実は本当には自分自身の中で信じきれていないからこそ、そういうふうな間違った方法を使う、ということなんです。決してね、その「目的」って言うのは「手段」を正当化しない。我々は何となく、さっき言ったようにですね、世の中にはいろんなことがあるので、本当にその達成しようとしている「目的」が正しければ、途中で多少の、ちょっと間違ったね、多少のことは許されるんじゃないかっていうふうな、何となくそういうことを思います。

で、そういうふうに思うことはね、決してそんなに間違った思考だとは思わない。けれども、本当によくよく考えてみると、もしもその最終的な「目的」なるものを自分自身で本当のところで信じきれていて、本当に必ずこうなるんだ、これは絶対に正しいんだっていうことを、本当に自分の底のところまで、無限の底まで信じきれているとするならば、そのように間違った安易な「手段」というものを考える前に、もっと本質的な、それを実現するためのちゃんとした「手段」というものを必ず考えうるということなんですね。

そこで、この「目的」のためだったらこれぐらい仕方がないのではないかと思ったときに、そのことについてよく考えてみると、実はそれは安易な、本当にその「目的」のところからきたというよりも心の弱さからきた、ひょいっと横でカンニングしようとしているような、そういうことにしか過ぎない訳で、本当に実現しようとしていることっていうのは、単にその時にそのようなことがパッと一回起きればいいっていうものではなくて、それがずーっと持続的に続いていかなきゃいけないものですから、その時に取っている「手段」というものも、実際にはその中に全部組み込まれている訳なんですね、本当は。

※1 Web上では第1回 §2中段あたり

 

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