「と、するとですね。表象というと、そういう表象を起こさせるものが何かあるわけでしょう? なにもなくて表象が生ずるわけはないのだから、とにかく表象が生じたからにはその表象を生じさせたなにかがあったはずです。それはなんですか?」

「うーん」と康融は頭をかかえてしまう。

「つまり、その、あれだ。それはアーラヤ識だ」

「老師の講義ではそういうことになりますね。しかし、そのアーラヤ識に表象を起こさせたものが、アーラヤ識以外にあるんじゃないかなあ。どうもそう思えて仕様がない。理くつでは分るんですよ。ここに赤い花がある。しかし、これを赤い花と認識するのは、赤い、花だ、という念を起こさせるものがこちらの心の中にあるんであって、こちらに赤い花だと認識する念がなかったら、それは赤い花として存在しない。だから、赤い花はそこにあるのではなくてこちらの心の中にあるんだという理くつはよく分るんですよ。

けれども、それが赤い花ではないにしても、そこに何かが存在するということは絶対だと思うんですがね。老師の講義を聞いているときは成るほどと思っているんだけど、ひとりになって考えてみると、どうしてもそこにひっかかってしまう。

アーラヤ識にそういう表象を起こさせたものがなにかそこにあることは否定できないでしょう? 赤い花が、黒か、白か、黄色か、あるいはもっとべつの色かも知れない。またそれは花ではなくて石ころかも知れない。けれども、花か石ころかそこに何かがある。そしてそれが花なり石ころなりの表象をアーラヤ識に生ぜしめたのでしょう? その存在は否定できない?思うんです。康融さんはどう思います?」

[略]

康安が、「はははははは」と大きな声で笑いながら起きあがった。

「なにかがアーラヤ識に表象を生じさせると考えないで、アーラヤ識というのは本来そういうはたらきを持ったものなんだと考えたらどうなんだい?」
と言った。

二人はきょとんとした顔で、康安を見つめた。

「おれはね、おぬしたちのように頭がよくないから、なんでも単純に考える。外界になにかがあってアーラヤ識に表象を起こさせると考えないで、外界になにかがあろうとなかろうと、アーラヤ識は表象を生ずる力を持つ。そういう性質を持っている。そういうものなのだ、それがアーラヤ識というものなんだと思ってしまったらどうかね?」

[略]

「そう単純には行かんですよ」と康融がせせら笑うように、「大体、仏陀ご自身が、十二処、すなわち、眼・耳・鼻・舌・身・意・色・声・香・味・触・法。十八界、すなわち、眼・耳・鼻・舌・身・意・色・声・香・味・触・法・眼識・耳識・舌識・鼻識・身識・意識の説によって、視覚器官と物質的存在とによって視覚的認識がおこるのだと説かれているじゃないですか。康円がいうように、外界になんらかの物質的存在がなければ、視覚器官だって認識を生ずる作用が発動しっこないですよ。いまいったように、仏陀だって十二処・十八界の説でそういっているじゃないですか」

「なるほどね、五蘊・十二処・十八界か、おぬし、よう勉強しとるなあ。じゃあ言うけれども、これは人の受け売りなんだが、それは古い考えかたなんだな。小乗の、有部派の考えかただ。いわば仏陀の方便説だ。これは受け売りで、わしは馬鹿だからよくわからんが」

[略]

「要するに認識の対象という問題だろう? それではいったい、何が認識の対象として認められるべきだろうか、ということになる。すると、それは知識の中にある形象にほかならないじゃないかということになる。要するに、知識の内部に認識されるものの形があだかも外界のものであるかのようにあらわれる。その形が認識の対象である、というんだ」

「それはわかっているんですよ。さっき私がいったように、この一つの世界で康円と私とでは違う世界に住んでいる。それは、康安さんの論によると、康円の持つ知識と私の持つ知識が違うからでしょう。それで、百人の人間がおれば百個のちがう世界がある、ということは、すべて実在の世界とは違う世界なんだということだから、世界は実在しないのであって、有るものは百人の知識が生み出した百個の表象があるだけだということになる。

そこでこれをいま康安さんがいった表現でいうなら、この世界は外界の対象が知識の中に生ぜしめた形象である。知識はこのようにして自らの内部にある対象の形象を知るのであるから、その認識は知識の自己認識にほかならない、ということでしょう。[もともと自分の中にあるからですね。]

しかしですよ。そうなれば、いま康円がいったように、知識に自己認識をおこさせる存在[まあそれがたとえ自己認識であるとしても、たとえそれがもともと自分の心の中に初めから、ある何らかの念として存在するものであったとしても、その念をその表象というものを起こさせるような何らかの、とにかく何らかの存在というもの]がどうしてもなければならなくなる。つまり、認識を時間?・空間的に限定する要素が、知識そのものの外になければならんのです。ごらんなさい」

[略]

「いまこの机の上に見られる壷は、いつどこででも見られるわけじゃない。認識は必ず特定の条件によってなされます。つまり、特定の時に特定の場所において生じます。すなわちこの壷はいまこの机の上においてのみ見られるわけだ。」

今このマイクはここにおいてのみ見られる。今というこの時間と、ここというこの場所的な限定があるということですね。

 

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