「もし認識が、外的条件の制約を全然うけることなくひとりでに知識によって[勝手に]生ずるのであれば、この壷は、任意の時に任意の場所で[好きな時に好きな場所で]自由に[勝手に]見られるということになる。」

例えば、このマイクというふうなものが「今ここにある」ということじゃなくて、そのある種の「念」というものが最終的な実在ということであるならば、必ずしもこのマイクが「ここ」に限定されるわけじゃなくて、どこにでもマイクだらけになっていてもちっともおかしくない。それがマイクだらけになっていないのはなぜか。それはやはり、実際にこのマイクというものが、我々の心の外に、我々の心と独立的に存在するからこそ、我々は「今」「ここに」マイクがあるというふうに表象をするのではないか、ということですね。少し解りにくい話かもしれませんけれども。

「この壷はあの木の上にでも、あの屋根の上にでも、知識の思うままに見られるはずです。この壷がいまこの机の上においてのみ見られるのは、認識が外界の対象によって制約されている。つまり、この壷がいまこの机の上にあってあの木の上にも屋根の上にもないという条件があるからです。」

「うーん、おぬし、むずかしいことをいうなあ」

[略]

「要するにおぬしのいう外界の対象とは、つまりは、認識をおこさせるところの知識を生起させる動因、能力、知識の原因、をいうわけだろう?」

「その通りです」

「じゃあ、外界に、実在する対象がなくても、対象の形象を持った知識が、特定の時に特定の場所で生ずることが証明されれば、おぬしたちの、いうならば外界実在論は解決するわけだな?」

「そう、その通りです」

[略]

「そんなことならわけはないよ」

[略]

「いったいどうやって証明するんです? 外界に実在する対象がなくて、どうして対象としての形象を持った知識または認識が生ずるのです。そんなことあるはずないじゃないですか」

「そうかな?」

[略]

「おあいにくさまだなあ。じゃあ、夢はどうなんだ? 外界に対象がなくても、無数といっていいくらいの形象が認識されるぜ」

「夢——」と康融は一瞬、絶句したが、「し、しかし、夢は目がさめたら形象は全部消えてしまいますよ」

「だが、さめないかぎり、無数の形象は存在しているだろう?」

「だけど、夢じゃあ——」

「夢じゃあ例にならんというのかい? そんなことはないよ。夢であったというのは目がさめてからわかることで、夢をみている間は、本人にとって夢じゃあない。どこまでもそれは現実の世界なんだ。そんなことをいったら、いまこうしているのが夢じゃあないといいきることができるかい?」

[略]

「それにまた、対象の形象を伴った知識は夢だけじゃない。日常生活においても生じるだろう? たとえば、この壷をみて、おぬしたちはこの壷だけを認識しているか? たとえばこの壷がだれかの好意によって贈られたものとする。そうすると、その贈ってくれた人の形象がすべてここに表象されてくるじゃないか。

ほら、いま、鐘が鳴っているな。あの鐘の音を、われわれは鐘の音だけ認識していやしない。むしろ、鐘の音は鐘の音を聞いた次ぎの刹那には消えて、それによって生起されたべつの表象がつよく認識され、それが実在とおなじ重みでわれわれを動かす。

さらにだ。壷がここになくてもはっきり壷を見、またここにある壷という形象を消失——つまり認識の外に出してしまう事だって、やりようによっては出来ない事じゃないんだ」

そうですね、今ここまでの論理はそれなりに頭に入っているでしょうか。どうでしょうか。まあ先ほどから何度かね、繰り返しお話をしたわけですが、ちょっと分からない感じの人はいらっしゃいますでしょうか。79ページを開けてください。その一番最後の所ですね。

「実に、すべての現象的存在は識[こころ]の中に蔵せられ、同じように識も現象的存在の中に蔵せられる。つねに、相互に結果として、また原因として」

もう一回繰り返しますね。

「…すべての現象的存在は、識[こころ]の中に蔵せられ、同じように識[こころ]も現象的存在の中に蔵せられる…」と言われて、いよいよ講義が始まった。

識とは何か。識というものには、まずは「前五識」があります。「前五識」というものは感覚器官、いわゆる五感です。そして、それを統合するところの「意識」というものがある。これが第六識ですね。そして、ここ(80ページ)には「思考力を媒介とする六種の認識機能」と書いてありますね。

そして、「末那識(第七識)」。そして「アーラヤ識」、これが第八識だと。まあこの「アーラヤ識」が深層意識だっていうことですね。

 

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