では、話を次に移したいと思います。先ほどのお話の後、83ページですね。
「理論的にはたしかにその通りだろうと思うのですが、どうも釈然としないところがございます」
[略]
「そうだろうな。世親菩薩さまもそれをちゃんとお見通しになられて、お答えなされていらっしゃる。おそらくそなたたちの疑問は、この四つに集約されるだろう」
老師の講義はつづく。
「唯識二十論」で、ヴァスバンドゥは、四種の疑問とそれにたいする答論を書いている。かれは、
「勝利者の子(仏陀の弟子)たちよ、実に、この三界は唯心の所現である」という「華厳経」の語をひいて、この世のすべてのものは、眼病者の幻覚にあらわれる網状の毛のように、実在せず、ただ表象としてあるにすぎない、と唯識思想を闡明し、これに対して仮定した反論者から四つの疑問を提起させる。
これが、先ほど引用致しましたところです(2-5)。これには実際は種本があって、服部さんという人がもともと書いている所をそのまま何も断らずに、そのまま引用されているようなんですけれども。ともかく、先ほどお話しましたから今の所はちょっと飛ばします。86ページに行きます。真ん中あたりです。
心に生ずる表象は心の流れの特殊な変化に起因するもので、表象される対象が外界に実在するのでは[必ずしも]ないとすれば、われわれの日常経験は夢に比せられるであろう。事実、ヴァスバンドゥは反論者の問いに答える際に、よく夢の喩えを用いた。かれ以後の唯識思想家たちも、実在しない対象を見る夢の中の意識を、唯識説を解明する適切な比喩としてしばしば取り上げている。
しかし、夢の中で見た対象は目ざめたときには消滅するから、実在しないことがはっきりとわかるが、目ざめているときに見る対象については、それと同様のことが経験されない。このことを指摘する反論者に対して、ヴァスバンドゥはいう。
「夢の中で見る対象が実在しないことを、いまだ目ざめていない人は悟らない」と。
今、「夢の喩え」とありました。比喩。この比喩っていうことなんですけれども。我々も比喩を使いますが、昔の、例えばいろんな宗教的な本を見ますと、比喩の連続であることに気が付くと思います。比喩の連続なんです。そしてこれ、比喩というのはたまたま、例えばまた何か気の利いたようなことをいうために、いわゆる科学的な説明をするのに昔は比喩しかできなかったからとか、そういうことでは全然ないんです。この比喩ほど本質的なものは、実はないわけなんです。
例えば「華厳経」とかね、極めてスケールの大きい宇宙的な、ものすごい物語、あれはあれでものすごいものです。まああれは後の人の創作ですけど。でもまあ、いろんな宗教的な天才たちが作った、極めて壮大な物語です。すごいんですけれども。
じゃあいわゆる小乗的って言われて、馬鹿にされていたようなもの、例えば原始仏典と言われる、つまりもともと仏陀が話したことをかなり忠実に記録していると思われる仏典というものはどんなものかって言うと、これは、また素晴らしいものなんです。また全然違うものなんですけれど。極めて人間的な物語がいろいろ出てくるわけなんですけども、目を見張らされるのは、その比喩の卓抜さなんです。これは、本当に物事の本質を理解していなければ、とても出てこないような、「まさにその通り」としか言い様のないような、喩えの連続なんです。これは本当にすごいです。そこに大きな物語があるわけじゃないですけど、「なるほど」と、もう本当にそうしか言い様がない。
そうですね、スープの喩えというのがあって、これはもう本当にいたく感動したんですけれども。こういう話なんです。本当に優れている者同士は、ちょっと会っただけでもたちどころに、相手のことを理解できる。ちょうど、優れた舌が素晴らしいスープの味を、たちどころに理解するようにと。優れていない人はどんなに長く優れた人の横にいても、全く理解しない。ちょうど、スプーンが素晴らしいスープの味を全く理解できないように、というわけなんです。
まさにもう「その通り」としか言い様がないような、本当に本質的な喩えなんです。これは単なる、ただ単に喩えじゃなくて、本当に本質的なので、何と言うんでしょうか、疑わしい、疑問的なところって何もわき上がってこないわけなんです。まさに「その通り」としか言い様がない。まあそういうふうな比喩の連続なんです。
この比喩というもの、これは正に「似たもの」ですね。比喩、先ほどの例のような、本質的な比喩というのは、全体が響いているわけです。その何かの本質。例えば今言った、優れた人がいて、そしてまた他に優れた人がいるという関係性の比喩。このような関係性と、優れた舌と優れたスープの関係。また相互作用を持てないそのスプーンとスープの関係。非常にもう、「その通り」としか言い様のないような比喩。
ここでは、全体がお互いに響きあっているわけなんです。これとこれが、全体的に響き渡っている。これも全体、統一体としての話です。単なる一部だけの比喩で、まあこういう面もあって、ある面ではそういうふうにも言えるけれども、でもあんまり本質的な比喩じゃないな、やっぱり違うんじゃないかな…と言う場合には、あまり全面的に響き合ってないわけです。とても優れた比喩っていうものは、ちょうど相似形のように、このようなあり方をしているものと、このようなあり方をしているものが、全体として響き渡っているわけです。単にここはちょっと似ているんだけれども、ここはもう全然違う、という場合ですと、まあ似ている一部分だけの比喩はとりあえずはできるんですが、全面的に響きあっているとは言えない。