この言葉、比喩、互いに似ているものを考えるときに、少し考えていただきたいことがあります。我々のいわゆる、狭い意味での「合理的思考」というものが、無意識的にどのような思考形態をとっているかということなんですけれども。これは、いわゆる「アリストテレスの三段論法」的なんです。
例えば「私は人間です。人間は死ぬ。私は死ぬでしょう」。
これがアリストテレス的な三段論法です。ここでは何が行なわれているかって言うと、「私(A)は人間(B)です」。AとBが同じものですね。人間(B)というものは死ぬもの(C)である。であるならば、私(A)は死ぬ(C)でしょうと。つまり、これをね、「主語の同定」というふうに呼びます。
- ◇アリストテレス的三段論法(主語の同定)
- 私は人間です(A=B)。人間は死ぬ(B=C)。私は死ぬでしょう(A=C)。
では、宇宙の三段論法の話をします。先ほどお話したアリストテレスの三段論法は、いわゆる狭い「合理的」な思考の三段論法です。その狭い合理的な三段論法というのは、主語の同定によって行なわれる、と言いました。じゃあ宇宙の三段論法はどうか。
宇宙の三段論法は、例えばこういうものです。「私は生きている。草は生きている。私は草です」。
どうでしょうか、とても奇妙な感じがしませんか。奇妙な感じがすると思います。私(A)は生きている(C)。草(B)は生きている(C)。そこで突然、私(A)は草(B)ですって言うと、この人何を言っているんだろうと思うと思うんです。でもここでは、「生きている」という「述語の同定」が行なわれています。
これはどういう意味なのかっていうことなんですけど。述語って何を意味するのかって言うと、機能(function)なんです。つまり、この「生きている」ということにおいて、私(A)と草(B)は同じ機能を持っている、つまり似たものであるということなんです。生きているものっていうのは、機能が共通しているっていうことであるわけです。
だから、この我々のいわゆる「合理的」な思考だと「私は草です」っていうのはものすごく突飛な、とんでもないことのように最初は聞こえますけれど、でもよく考えてみてください。私は生きている。草もやっぱり生きている。そうすると「私は草です」って言って何がおかしい。おかしくないんです。私は呼吸をします。草も呼吸をします。私は草です。同じですね。
- ◇宇宙の三段論法(述語の同定)
- 私は生きている(A=C)。草は生きている(B=C)。私は草です(A=B)。
今日はあまりここについて詳しくお話できませんので、考えて頂く糸口として今ちょっとお話ししましたが、実はこのことはとても大きな意味を持っているんです。
さっき、「宇宙の三段論法」と言いました。これは本当は、大げさな言葉ではないんです。
我々は主語の同定をしている。主語とは一体何かっていうことなんですよね。主語っていうものは、分けられます。「あなた」とか「○○さん」とか、「これは私だけど、それは私じゃない」とか。これは分別的です。そして、分かるように、主語、自分、つまりこれは、自我、先ほどの第七識、末那識のところで言いましたが(これは後で詳しくやるわけなんですけれども)、自分に執着する意識ですね。
そしてこの第七識が、第八識に対して、自分というものが、全て自我、自分というものはこのマナスそのものであるというふうな誤った信号を与えるところなんですけれども。このいわゆるアリストテレス的な三段論法というのは、分別的な思考の極限のようなものですけれども、これは主語の同定からできている。
それに対して、この述語。これは「私が」とか「あなたが」ということじゃない。「私は草です」というのを聞いて最初におかしいと感じるのは、我々がいつも、主語的なものを分別しようとする、そのような働きを頭で自動的に行なっているからなんです。「俺は草なんかじゃないぞ」というふうにまず思うわけです。つまり、自我です。「私」ということから全てが始まるような、そのような思考の構造を、まあ持ってしまっているわけですね。現在において。
でもこれで言うと、同じような働きを持っている、機能を持っているものは、全て自分と同じ。その中に、宇宙のあらゆるものがその働きの中で吸収をされています。まあ、今あまりピンと来ないかもしれませんけれども、これは実はすごく大事なことで、実はすごく大事な、ある種の秘密を皆さんにお話ししていることでもあるので、まあどこか頭の中に入れておいて頂きたいと思います。