今までのお話は、どれも別々に見えるかも知れないのですが、実は準備をしている感じなんです。ある程度準備ができたら、これらが次第にだんだんだんだんお互いに関係をしあってきて、だんだんだんだん一つの所に行くんです。そして、どれが欠けても、後でこの全部が素晴らしい意味を持って一つの所に行くということが、しにくくなるんです。

今日、ある程度パッパッパッと、何かちょっと抜粋をして行こうかなと思ったんですが、もちろんそんなことはやっぱり不可能なんですね。

このコースでは、次回(第3回)に「小林秀雄を軸にして」というテーマでお話をしようと考えています。(小林秀雄の資料はまだ配ってないですよね…ええ、できれば今日配った方がいいですね。)

次回は特に「概念」について、非常によく考えることになります。お配りするのは、ほんの数ページにしか過ぎない文章です。おそらく最初は、すごく読みにくいと思います。ほんの数ページなんですけど、読みにくい。私も、前お話したかもしれませんけど、まあ150回か200回ぐらい、ものすごく精読してようやく、もう毛穴の先から全部分かったという感じになったんですが、最初は全然分かりませんでした。ですけどこれは是非、それを読みながらやっていきたいんです。

そのことも、全体的なこういうことも、皆関係をします。そしてコースの第4回では、科学の本質についてお話をします。「『部分と全体』を軸として」というテーマですが、これは単なる科学のお話ではなくて、認識の問題です。あらゆることに全部関係をしていきます。

そして第5回で、「科学・宗教というものを軸として」というテーマで、エネルギーとは何かというお話をします。前回(第1回)にしたようなお話も含まれますが、その間にね、それぞれがいろんな形で、だんだんだんだんと一つの方になっていくだろうということを期待しているわけなんです。

そして、最終回「人間の本質的成長」の中で、本質的成長というのはどのような方向性であるかというお話、まさにさきほどおっしゃったような、解脱的な方向性ですね。病というか、世の中に起こるいろんな現象、それらには一体どのような意味があるのか。

前回第1回目は、何らか全体的な枠組み的なお話をしたわけですが、2回目以降にこれらのお話をしていく中で、とにかくいろんなことが、どんどんどんどん一つの方向に行くわけで、今その途中の段階にいるということなんです。

本当はね、今回お話をしている「唯識を軸として」というテーマについてお話する日が、もう一回あればいいなというふうな思いもあるんです。ですからその意味では、この本(「密教誕生」)を本来は皆さんが、最低でも数回お読みになっていることを前提にして、お話をしたいことがね、本当はあるんですけれども。

今日、ちょっと朗読的になっているのは、お読みになってない方もいらっしゃるのでね、どうしてもそれを1から、ゆっくりとお話をする必要があるので、そうしております。今日朗読的にやらなかったらまた、次回まで多分お読みになかなかなれないと思いますので、そういう感じなんですけれどもね。

質問

今日はそのゼロポイントに行くということですか。

そうですね、ゼロポイントに行くということも、この本の中に出てきますが、それは結局、そのゼロポイントからあらゆることを「再定義する」ということなんです。

「再定義する」ということはどういうことかって言うと、仮構されているあらゆる虚妄・妄想、それらがどのようにできているのかということが、だんだんだんだん明らかになってくるということなんです。

それが、ただ単にこういうふうになってきたんだよというふうに、説明的に明らかになるのではなくて、その「明らかになり方」っていうのは、それが、その明らかになることそのものが、もうそこから覚めていくような、そういうことにそのままつながっていくような分かり方なんです。

そうして、その本来の「存在のゼロポイント」、そこから、全てのことがあるべきように再定義されていく。これは、我々の日常のありとあらゆることが、全てそこから組み直される、そのようにして、またそういう方向性で、我々が新しく生まれ変わるということを意味しているわけなんです。

質問

それはつまり人間とは何だろうという、人間の見方ですよね。だからその再定義というのは、人間の定義というか、人間ってどんな存在なのかという、そこを理解してからでないと理解できないということなんですよね。

私たちは人間で、その中に意識、意識の中に自我や真我、マナ意識とかアーラヤ識と呼ばれる意識がありますね、お話を聴いていると。で、その自我、マナ意識の中で、私たち人間というものは定義されている。

それによって私たちは、例えば意識化された物を見てしまっていると。私たちは、実はその物に辿り着く前の意識、アーラヤ識によってでき上がった現象のもの、その表象のものを、幻想化してしまっている。そして人間としての意識自体が、幻想化されたものである、そんないろんなことを今日のお話の中で感じたんですけれども。

そうすると、そこの意識の整理の仕方、つまり再定義のあり方自体が、じゃあ人とは何だろうって、「人」って実は「人」ではなかったんじゃなかろうか、という所に最終的に行き着かざるを得ないような所を感じます。だから「私」とか、その自我の中で言った「答え」というのは、実は幻想でしかあり得ない。

先ほどの携帯電話というのが、実際、携帯電話というのは形、その表象というかでき上がった形であって、その携帯電話というのは実は音を伝える物である。だから、その真偽っていうのは形にはないわけですよね。で、形になったものが、その携帯電話であったり。例えばこのコップだって、本当はこれ、コップというよりも土なわけですよね。

結局そのでき上がる以前の物は何だったのかということ、振り返って人間を見たとき、意識としての自我ではなく真我ということ。その真我というのがよく分からない。アーラヤ識の方で、判断というのか、アーラヤ識の中で意識化していくこと、すみませんちょっとよく分からないのですが…話を聴いていると、何となくそういうものをちょっと感じます。

はい。よく分かりました。今いろいろ、いいお話を頂きましたけれども、それについてはまさに今から引き続きお話することによって、だんだんより明らかになっていくと思います。

 

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