我々は、気が付いた時にはすでに生きていますよね。気が付いた時にはもう産まれていて、生きている。生きていて、何か食べなきゃいけないし、こういうこともしなきゃいけないし、ああいうこともしなきゃいけないし…って、とにかくいろいろ活動しているわけです。そしてその中で、いろんな問題が起きてきたりするわけです。

本当は、いろんな問題が起きるっていうことは極めてありがたいことなんです。問題というのは、今のままの自分でいた時に、何らか解決しなければならないことがあるということを教えてくれてもいるわけです。結局我々は、それなりに生きてはいるわけですけれども、あらゆる根本に立ち返ってそこから全てがそうあるべくしてあるような、秩序に則って生きているわけでは必ずしもありません。

言ってみれば何となく、というよりもとにかく、気がついた時にはしなきゃいけないことがいろいろあるのでそれをパッとやる、次の時には別のことに気がついてそれをパッとやる…そういうふうにして、「とにかく生きている」わけなんです。その中で、いろんな問題が起こって悩む。何かがおかしい、何かがこのままではいけない、ということを感じ、そして問題の本質がどこにあるのかということを考えたりするわけです。

そうしていくうちに、それを正しく考えた時にはいろんなことがそれまでとは違って感じられるようになる、ということが次第に分かってきます。ああ、これはこういうふうに何となく漠然と思ってやっていたんだけれども、その本当の姿ってそういうことじゃなくて、それは単に仮構された存在形態に過ぎなかった、本当はこういうことだった、ああいうことだった…ということが真に分かってくるわけです。

そうすると、今度はそこから出発して、物事をそうあるべくように組み立てていこうとするわけです。日常生活の中でも、いろんなレベルでそういうことが行なわれます。最終的には、最も根源的な、全ての根源、「存在のゼロポイント」まで立ち返って、あらゆることを再定義して生き直すということになるわけですけれども。

そのときに、いったいどのようなことが「仮構されたこと」だったのかということ、今日はまだこのお話を充分にしておりません。お話したのはアーラヤ識の途中までで、まだ末那(マナ)識の話を充分にしていないわけですね。

この末那識の話っていうのが、極めて重要なわけなんです。この「自我」。なぜこの識が「『自我』に執着する」と表現されるのか。まあこの識は後ほど出てくるように、「汚れたマナス」とも言われるですけれども。ある種の「汚れ」です。ただこの「汚れ」と言う時に、あまり否定的な意味を持たないで頂きたいんです。さっき「色」と言いましたけれど、これは「色」とすごく深く結びついてきます。「汚れ」っていう言葉を使うとどうしても、汚い物、悪い物というような、何かマイナスのネガティブな感じがしてしまうのですが、あまりそういうふうに考えてないで、「いろんなエネルギー」というふうにお考え頂きたいんです。

この世にいわゆる絶対的に悪い物、絶対的にいい物というものはありません。

そうですね、この本は次回までに、どうしても2回はやっぱり読んでいただきたいんです。2回ほど。2回読んでいただいてお話できることと、1回読んでいただいての場合と、内容が違ってきます。今回このテーマを1回完結でやろうと思ったのは、しつこいようですけれども、読んでいただいているという前提のもとで、ある程度次々とポイントをお話をしようと思っていたからなんです。

では、163ページを見てください。急に少し飛びますけれどね。

「『最近の論で、アーラヤ識を三つの心に分類して考える考えかたがある』

[略]

『よいか、三つの心だ。これを、能・所・執の三義という。アーラヤは、前に述べた通り、“蔵”と訳せられる。だから、能蔵、所蔵、執蔵だ。どういうことかというと、能蔵とは持種の[種を持つ]義であり、所蔵とは受熏の義である。つまり、一切の種子を執持して失なわない点で能蔵といわれ、七転識に種子を熏ぜられる点で、所蔵といわれるのだな。つぎに、執蔵とはなにかというと、つまり所執蔵、他から執蔵せられるという意味なのだ。では、どこから執せられるのかというと、第七識に常に“我”と執せられるというのだ。

ここでひとつ冒頭にかかげた“瑜伽師地論”の章句を思い出してもらいたい。すなわち、なんとあったか。“我愛によって個体が形成され、アーラヤ識と結合して生長し、出生する”とあったな。これは、“我愛”が中心になってアーラヤ識をひきよせ、個体が生長してゆくということで、このことを、すなわち、所執蔵、つまり他から執せられる、といったのだ。これでわかったろう。アーラヤ識をつねに“我”と執する意識とは、すなわち、我愛とよばれる第七意識であったのだ』

この老師の解説は、要するに、第七識とはつねにアーラヤ識の流れを『自我』と見なす思惟[マナス]を本質とする識だということである。そこでマナスの識と名づけられる。すなわち末那識である。

この識のあることによって、人間は、六種の認識器官による認識が、つねに、自分のなにものであるか、(自分が自分である)を把捉する性質、すなわち自我意識を持つことが出来るのである。」

「ところが、この識は、つねに自分を把捉していなければならぬという機能の結果、なにごとも自己を中心にして思考するという宿命を持つ。」

自分に執着していないと、この世に生存し続けるということはできない。従って、この世に生存するためには、何事も自己を中心として思考するという宿命を持ってしまうということなんです。

「その結果、『我痴』『我見』『我慢』『我愛』という我執の四煩悩をつねに伴うようになるのである。そのため、この四つの煩悩に汚されているので、第七末那識は、『汚れたマナス』とよばれるのである。

最初、マナ識はアーラヤ識とおなじものであると思われていた。アーラヤ識は、個体維持の中心として、生存の根本動因としてはたらき、マナ識はその中でも最もつよい自己保存、自己防衛を主にした自我意識であるから、両者の機能は深く密接にむすびついたものである。だから、古い唯識学では、とくに第七識を立てず、アーラヤ識の中にふくませて考えていた。のちに、この我執を中心にした自我意識のはたらきを、独立の識の機能として見るようになり、第七識を立てるようになった」

 

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