例えば、ある時に交通事故に遭うとします。

その時に、誰かが自分を殺そうと思って狙ってぶつけてきた、それで大怪我をしたというのと、例えばある人が、目の前に飛び出してきた女の子を避けようと思って、パッと咄嗟に急ハンドルを切ったらそこに自分がいてしまった…というのでは、同じ交通事故に遭ったと言っても、受け取り方がすごく違ってくると思います。

今何を申し上げたいかというと、我々は、あることそのものから何か影響を受けるわけではないということなんです。そのものではなくて、「そのもの」というのは、つまり必ずその背後…と言うよりも、それによって表現をされているそのエネルギーと対峙しているということなんです。

生徒さん

傷つく問題についておっしゃっておりましたが、例えばオウム真理教によって父とか母とかいろいろな人が殺された(※この講義は2003年に行われたものです)と、そういう場合にはやっぱり傷つくんじゃないでしょうか。それからまた、例えば先生の奥さんが、ある暴力団によってですね、先生の目の前で犯されて殺された。そういうことはもちろん時々聞くことでもありますよね。その時に、そういうふうに傷つかないでいらっしゃる先生というのはどういう先生だろうかと思いますけれども。

分かります。おっしゃる通りですよね。

今のご質問は言葉上の、「傷つく必要がない」という言葉から、疑問をお持ちになってお話になっていらっしゃるわけです。ですので、もっともなご質問だと思うわけなんですが、今はそこのお話をしているわけではないんです。

例えばですね、ある酷いことが起こったと。オウム真理教のことがあった、また今おっしゃったような、配偶者が突然誰かに犯されてしまったなどということがあったとします。その時に、「でも僕は関係ないよ」っていう感じで、全然傷つかないというふうなことを申し上げているわけでも全くないんですね。そういうこととは全然違うということなんです。それはもう全然、白くも何ともないわけですよね。要するにそこにあるのは、物事にちゃんと向き合わないでいい加減に済ましている態度だけです。要するに、完全に向き合って直面してどうなるかということなんですよね。完全に直面した時、その最終的な、究極的な姿として、最終的には人間というものは何ものによっても傷つけることができないということなんです。

例えば、後の例ですね。もし私の妻が、先ほどおっしゃったような不慮のことに例えば遭ったとしましょう。当然、すごく傷つきます。傷つくだけじゃなくて、おそらくものすごく激しく憎む感情というものも出てくると思います。そして、もう殺しても殺しても飽き足らないような、そういう感情に多分支配されると思います。要はその後なんです。最終的にどこに行き着くのかということなんですね。

要するに、それで話がおしまいということではないということです。そしてね、それはさっき言いましたように、緊急避難的にちょっと棚上げして、気持ちを軽くするという方向とは全く違うことなんです。とにかく、完全に対峙して、何一つ見逃すことなく、ごまかすことなく、完全に向き合った末、最終的にどうなるのか、ということなんです。そして、心を軽くするためにこういうふうに考えてみよう、というふうな気休め的な、その紛らわし方というものを一切しないということなんです。一切せずに、最終的にどこに行き着くのか。そうすると、苦しんで苦しんで、もう憎悪にまみれたその最終的に行き着く所は、おそらく、何物も妻を傷つけることはできない、という所だろうと思います。

ですから、これは極めて誤解を招き易い表現なんですけれども、今申し上げたような方向性から推測していただきたいと思います。

生徒さん

そこで非常にアンビバレンスな問題が出てきますのは、例えば若い女性が強姦をされたと。そういう場合には、その被害者でありながら、自分で自分の加害者になるわけですよね。いわゆる自閉症になったり、ノイローゼになったり、また自殺をすると。そういうふうなことは、真正面からその問題に向かっていないということになるのでしょうか。そして、自分の本当の尊厳性に目覚めないと言いますか、そういうことになるのでしょうか。

人間というのは、その時に自分ができる最大限のことしかできないわけなんです。ですから、後で向き合える時になってみたら、結果的に、あの時には向き合えてなかったんだなというふうに思うかもしれませんが、その時にできることは、自分を緊急避難させることしかできないということがとても多いと思います。ですから、今申し上げたように、それがその時の最大限の努力であったということだと思います。ちょっとそれ以外には表現のしようがないんですけれども。ですからそれは、何ら非難したり、否定するようなことでもなしに、あなたは自分のそれに直面せずに、そういうふうに避難していただけなんだとか、逃げていただけなんだとか、まあ言ってみればある側面ではそうかもしれませんが、でもその時にできる最大限のことがあるわけなんです。

例えばですね、人間は絶対に逃げちゃいけない、と。そこに、トラックが自分に直面してきた。この時に、絶対逃げちゃいけないから逃げずにそこにいる、ということになるとどうでしょうか。

これは、実は「逃げちゃいけない」というその言葉によって仮構された世界に閉じ込められているだけなんです。「逃げちゃいけない」というのは一見正しそうですけども、それは無条件の言葉でも何でもないわけなんです。ですからその時の正解はもう言うまでもなく、ある種「逃げる」ことですよね。でもその「逃げる」っていうのは、「逃げちゃいけない」ということと同じような意味での逃げるっていうことなのかというと、またおそらく違うと思います。まあブルドーザーでも何でも簡単にぶん投げられるようだったらそういうことを考えていいかもしれないけれども。

でも、そうなったとしても、じゃあぶん投げられるなら、ぶん投げるのか。ただ単に、自分の実力がない時は逃げる。力が付いたら今度はぶん投げる。それは弱い者いじめと全く同じです。力が弱い時にはいじめられる。それで逃げる。今度はくそ!と思ってやり返す。まあその程度のことですから。

今日はちょっと何とも言いがたい気持ちなんです。なぜかと申しますと、今の私の感覚的な仮構された世界では、10時ぐらいまではお話をしないと、今日の授業に終わりが見えないような、そういう気持ちになっておりまして。どうしたものかと思っているんです(笑)。

 

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