では、この「密教誕生」のですね、37ページを開いて頂けますでしょうか。37ページの「唯識問答」という所ですね。

『老師、輪廻によって私たちをこの世に生み出す根本動力が、私たちの心の根底にあるアーラヤ識であり、そのアーラヤ識は、無始のむかしからはじまって私たちの果てなき未来における生存までその力と流れを断絶することなく継続するとするならば、輪廻からの脱出がどうして可能なのでありましょうか。それはたとえば急流を流れくだってゆく水が、水自身流れをとめようとするようなもので、不可能なのではないのでしょうか?』

と質問して、康勝老師を驚倒させたのはその翌年のことであった。この問いに答えたら、もう法相の教理部門は終りである。[略]

『そなた——だれにその質疑を聞いた?』

ちょっと一部省略します。次のページ、

老師はその眼をじっと見かえしながら、『可能なのだ』と答えた。

『それでは、解脱したことを知る心はどの心でありましょうか? また、解脱する心はどの心でありましょうか?

すべての存在は実体がなく、それを実体だと感ずるのは、心の深奥にあるアーラヤ識の中に、無始以来の業によって生じた記憶があって、それが、外界の一つの縁にふれたとき一つの存在として認識されるのであり、そのゆえにすべての存在は自分の識のなかにあるものの表象に過ぎず、実際に実在するものはなにもないのだと経典は告げております。

すべてはアーラヤ識の中にある自分の識が決定するので、自分の識が赤色であれば、透明なるものも赤い実在として認識され、黒い識であれば白色のものも黒色として認識される。

つまり存在とは自分の識にほかならないということであります。あるものはただ識のみであるから唯識というのだとかねてうけたまわっておりますが、それでは、そのアーラヤ識だけは実在するのでありましょうか?

しかし、アーラヤ識がもし実在ならば、それは実在であるがゆえに解脱はできませんし、またもしそれが実在でないならば、実在でないものからの解脱ということはあり得ませんし、しかしそれでもなお解脱が可能だというのなら、輪廻をもふくめてアーラヤ識の存在もまた実は識の表象にすぎなかったということになるのではないかと思うよりほかないのでありますが、これはどうでありましょうか? この考えのどこが誤っておりましょうか? 御教示をたまわりたく存じます』

[略]

なんと! この少年は難解きわまりない唯識教学をほとんど完全に理解しており、しかも答まで持っているのである。

後で出てきますが、この問いそのものが実は答えでもあるわけなんですけれども。今のところで、まずこの話を急流に喩えるっていうことはね、後で分かりますが非常に的確なことなんです。まあこれは後にならないと解説が難しいので、今は省略いたします。

先ほどの箇所の中に「解脱したことを知る心はどの心なのか、また解脱する心とはどの心なのか」という問いがありました。

阿頼耶(アーラヤ)識がもし最終的な実在ということであるならば、最終的な実在っていうものは、通常で言うと「最終実在」というからには変わりようがないわけですね。「最終」ということは、その「初源的」な実在でもあるわけです。

つまり、それから始まりそれに終わるようなものですから、最も根源的な実在、ということは最も根源的なものであるというからには、これは変化をしないものである。最も根源的なんですから。最終的に何も変化をしようのないものが最終実在なのであって、もしもこれが最終的な実在だとするならば、それが解脱する、変容をするということはあり得ない。

今度は逆に、阿頼耶識が最終的な実在ではないとします。解脱というのはまさに、最終的な実在そのものですから、そもそも最終的な実在でない阿頼耶識が解脱できるわけもない、ということになるわけですね。

それでもなお、解脱というものが可能だと言うのならば、結局はこの輪廻も阿頼耶識の存在というものも、実は最終的な実在でも何でもなくて、単なる我々が勝手に作り出したところの、単なる識の表象に過ぎないのではないか、ということなんですね。まあ、この「最終的な実在」とは一体何かということです。

このことに関連して、後でも出てきますが、中論(中観思想)と言われる思想があります。代表的なのは「般若心経」、その中に出てくるような「空」の思想です。例えば、「般若心経」に一番最初にうたわれていることは何かって言うと、「あらゆる物質、いわゆる、あらゆる「物」というものには実体がない。また、実体がないからこそ
、物であると呼ばれるのである」ということなんです。一番最初、「般若心経」って何て書いてありましたでしょうか。そうですね。その後です、有名な所は。そうですね。「色即是空」それから「空即是色」ですね。ここのところで結局意味しているところというのは、「物というものには実体がない」、そういうことなんです。

「空即是色」というのはどういうふうに書きましたか。まず、「空」(そら)ですね、はい。この「色」(しき)って何かっていうことなんですね。この「色」っていうのは、極めてこれは素晴らしい訳だと思うわけですけれども。もともとサンスクリット語から翻訳しているわけですけどね。これはまた後でも出てきますが、この「色」というものは、またその「空」の考えと唯識とを、直接結び付けるような働きを持っております。これは、いわゆる「物質」とか「物」ということでもあるんですけれども、なぜね、この「色」(いろ)という語を翻訳にあてたかということ。そうですね、今日の終わりの方に、この色ということについてお話をしますので、その時にお話しいたします。

そして、この「空」(くう)というのは、「最終的な実在ではない」ということなんです。まあこの辺の話はどちらにしても、今から読んでいくところで出てきますので、出てきたその時々に話したいと思います。

 

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