「当麻」についてまだ終わっておりませんけれども、先程「言葉」について少しお話しましたが、凄く簡単な言葉遊びというか、言葉について考えることをちょっとやってみたいと思うんです。

P68ページの真ん中辺りに「あの本にばら撒かれていた当人も読者も気がつかなかった女々しい毒念が」って書いてありますね。「女々しい」って書いてます。この女々しいという言葉を、ちょっと考えてみたいと思うんです。

ここで「女」という字をあてていますけれども、我々「女々しい男」って言うけれども、あんまり「女々しい女」と言わないですよね。なぜ言わないんでしょうね。この言葉が、どういうふうに出てきたかっていうことなんですけれどね。

男性性、女性性という言葉があります。それで、男性性、女性性という時と、いわゆる男性、女性というものは、実はよく似ているようなんだけども、これまたちょっと違うことなんですね。男性性、女性性というのと、男性、女性っていうのは違うんです。何が違うのか。男性性と言った時に例えばどういうことを男性性というふうに言うでしょう。男性性と言った時。例えば、男性性を表すような言葉って例えばどんな言葉があるでしょう。何でもいいですけど。例えば「強い」。

男性性と言った時に、例えば強いっていう言葉っていうのは結び付きます。また、女性性っていうのは、一応「弱い」っていう言葉を、例えば結び付けるとします。では、男性は強くて女性は弱いかって言うと、そんなことありませんよね。逆だったりすることもしばしばあります。

必ずしも男性が強くて、女性が弱い訳じゃないのに、例えば男性性というのは弱さで、例えば女性性が強さっていうふうにやっぱりすぐ我々は結び付けないですよね。それは一体なぜなのかっていうことなんです。なぜなのか。

ここでね、理想的な男性、理想的な女性がいるとします。この時に、理想的な男性は男性性100%で、理想的な女性は女性性が100%なのでしょうか。あくまで、この男性「性」、この「性」という言葉を使ってますけどね。

これはね、もちろんそんなことないです。理想的な、まああえて数字を使うとすると、理想的な男性は、男性性・女性性を、どちらもまあ半分という言葉になると、これは何か分けるみたいですけどね。まあとにかく両方持っている訳なんです。両方持っていて、じゃあ同じかって言うと、同じではなくて、多少、ちょっと異なった表現の仕方はするんだけれども、でもね、よく考えてみると、例えば本当の男らしさとは一体何か。本当の女らしさとは一体何かっていうことをね、本当のって考えていくと、当然この、例えば最初強さから出発してもいいんですけれども、本当の男性性ってね、ただ強くて、例えば弱い者いじめするってなると、あまり本当の男って感じはしなくなりますよね。凄く強くって凄く優しいってなると、何か凄く男らしくて、理想的な男性っていう感じになってくる。

例えば、ずっと理想的な女性は、何と言うんでしょうか。そうですね、まあこの「弱い」っていう言葉はね、例えば「弱い」って、ここに「か」を付けるとちょっと違っていますけどね(笑)。ちょっとこれはまた出発点としてはあまり適さないので、例えば「優しい」としましょう。「思いやりがある」。理想的な女性っていうことを考えた時に、例えば優しい、思いやりがある、これはいいでしょう。それが、例えばどういう優しさなのか。どういう思いやりなのかっていうことがね、例えばそれが弱さに根ざしているような優しさなのか、まあ優しさと言うか、本当はその本質は、弱い、でそれがたまたま例えば傷の慰め合いみたいにしたり、という感じで、優しく逃げるような優しさなのか、それとも、芯が強くて本当にね、愛に溢れていて、そこから自然に出てくるような優しさなのか。それはまあ凄く違う訳ですね。

どちらも考えてみるとね、結局、理想的な男性は、強くて、これはその結果としてでもあり、これらは何かね、分かれたものではなくて、その強さ、本当の強さっていうのは、その優しさ思いやりにそのまま直結する訳ですね。そしてね、本当の優しさというものは、無限に優しくないといけませんから、無限に優しくなれるっていうことは、どのようなことがあっても優しさ思いやりを失わないっていうことは、とてつもなく強くないと、無限に優しくなるっていうことはできない訳ですよね。

ちょっと何かがあると、すぐ余裕を失って、何かきーっとなったりとかね、すぐに優しさを失ってしまう。それはもちろん優しいっていうことにならない訳ですから、だから結局はね、我々が通常男性性、女性性と呼んでいるもの、これらはさっき50、50って書いたのは、独立的にこの50、50があるっていうことじゃなくて、結局はこれはね、本当は分けられないものですよね。分けられない何かなんだけども、さっき言った、命の木だけを食べている時には、これらはこういうふうな形容詞で分ける必要がないような、一体となっているものであったのに、その善悪を知る木を食べてからは、これはこういうふうに分けるようになった。

分けるようになってくるとどうなるかと言うと、これらが本来は分けられないようなものだったものを分けてくると、「優しくない強さ」っていうのもある種可能になってくる訳です。で、「強くない優しさ」っていうものも、ある種可能になってきちゃう訳で。つまり、ただ威張っているだけ、そうするとこれは本当は、威張っているだけっていうのは本当は全然強くない訳ですよね。でまた、「強くない優しさ」、これは、単に勇気がなくて、単に人にね、例えば人の顔色をうかがってこう、きょろきょろしているだけ、ということにどんどんなってくる訳で。

結局そういうふうに、これが一つの時には、もうこれらは分かれようがない訳で、もうこういうものとしてある訳ですけれども、そこで分裂すると、一応それが分かれることができて、このいわゆる強いっていうことだと、この強いという要素だけで、いわゆる一つの方向性だけ。本来は一つの方向性ではなくて、その全体の曲線的な、円的なものであったのが、これが凄くある方向性だけになってしまいます。いわゆる強さだけ、優しいとか思いやりとか、そういうふうな方向性のものを失って、この強いという言葉が出てきちゃうと、もう強いと弱いとかそういうふうな、非常に単純なその二つの両極端の方に行ってしまう訳なんですね。

だからね、結局、我々は、そういうふうな世界の中に閉じ込められているんだけども、本来はこういうものなので、そこに本質的な意味で成長しながら、これらが分かち合う、分けることができないような、その本来の秩序の中に、この分裂していたもの、分かれていたものが統合してくる。そこに行こうとする訳なんですね。そこに行こうとするような試みをしようとして、あらゆる修行にしても、あらゆることはこのようなものを本来は目指しているはずである訳なんです。言葉の虚妄を超えるということは、結局こういうことでもある訳なんです。

だから、その「女々しい」。これは、まぎれもなく、いわゆる女性性と言われる観念の中の何かを取り出してできた言葉ではある訳です。でもね、さっき言ったように「女々しい男」とは使うけど、「女々しい女」とは決して使わない、通常ね。また、例えば「女みたいな男」と言うけれども、「女みたいな女」とはもちろん言いません。「女みたいな」という言葉の方が、この女々しいよりももっと直接的で分かりやすいんですけれども、「女みたいな」と言った時に、本当はそれは、女性ではないんですよね。ただし女性性というもので、さっきの女性性と女性とはね、もともとこれから出てきたものなんだけれども、でも全然違うものに、違うというか、全然イコールでないものなんです。

今何を言おうとしているかと申しますとね、通常何かを表現しようとする時に、どう言うんでしょうかね。「女のような男」と言う時に、あるイメージが割とクリアに浮かび上がりますよね。でも「女のような女」って言った時にね、もちろんそれはそれであることを意味しうるんだけれども、だんだんその「女」という言葉を使って女性を表現しようとしていっても、分かりやすい表現というものは恐らく難しくなってくるはずなんです。女という言葉を使って女性を表現して下さいと言った時に、とても難しくなってきます。で、だんだん言葉を失ってくるんです。なぜかと言うと、そうですね、女という言葉とそれから女性という存在と、もともとは、それはくっついている言葉で、本当はもともと離れている言葉ではない訳なんです。なので、離れていなかったら、とても表現しにくい。

ちょっと今分かりにくいかもしれません。例えば、「女のような男」って言うと、その意味しようとしている方向性というのは凄く分かりやすいはずなんです。言葉というのはそういうものなんです。もちろん「女の中の女」とかね、「男の中の男」っていうふうな言葉を使うとまあそれはそれなりにもちろん表現できないことはないんですけれども。

今申し上げようとしたことというのは、つまり言葉というものは、何か融合している時には言葉はむしろ生まれにくいものであるということなんです。うまくまた表現できる言葉が出てきたらまたお話しますけれども、何かと一致してくると言葉っていうのは、どんどん生まれにくくなってくる。一致してくると、結局だんだん言葉がいらなくなってくるということ。そして、そのものだけにだんだん近付いてくるということ。これをちょっと頭の中に入れておいていただきたいと思います。またお話をしていくうちに、何か今のことについてはまた違う説明の仕方ができると思います。

 

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