先程の、

「あの慎重に工夫された仮面の内側にはいり込むことはできなかった」。

じゃあ何をしていたのかっていうことなんです。でこれはね、この次の「徒然草」の中で、突然「徒然草」に行くみたいですが、70ページの真ん中のちょっと左。

「『つれづれ』という言葉は、平安時代の詩人らが好んだ言葉の一つであったが、誰も兼好のように辛辣な意味をこの言葉に見付けだした者はなかった。彼以後もない。『徒然わぶる人は、いかなる心ならむ。紛るる方なく、ただひとり在るのみこそよけれ』、兼好にとって徒然とは『紛るる方なく、ただひとり在る』幸福並びに不幸を言うのである」。

「兼好は、徒然なるままに、徒然草を書いたのであって、徒然わぶるままに書いたのではないのだから、書いたところで彼の心が紛れたわけではない。紛れるどころか、眼が冴えかかって、いよいよ物が見えすぎ、物がわかりすぎる辛さを、『あやしうこそ物狂ほしけれ』と言ったのである」。

「徒然草」そのものについては、またお話ししますが、この「紛るる」ということなんです。この「紛れる」ということなんですけどね、何かをぱーんと掴むことができない時、我々は結局その周りをぐるぐる回るだけである。つまり、さっきの尽くすことができない、極めることができない。例えばここに、本来行くべき点があるとします。そこに行こうとする時に、例えばこれを仮に1としたら、0.9やってみる。なかなかそれはうまく行かないです。で、しばらくぐるぐる回っていてもいいでしょう。でも結局はここに、何らか、ここに行けるのか行けないのか。

ここに行かれない、行かれなかったらじゃあどうなるのかっていうと、いつまでもああでもないこうでもないというふうに、観念の言葉でこれはこうだろうああだろうというふうに、感想をただ述べあって、こっち行ったりあっち行ったり、まあいろんなことをするでしょうけれども、でもいつまでもそこに行き着くことはできない。それについておしゃべりすることはできる。そういう状態を「紛れる」と言っている訳ですね。

だから、

「『徒然わぶる人』は徒然を知らない、やがて何かで紛れるだろうから」。

つまりいろんなおしゃべりで紛れるだろうから。いつまでもそこに行けない。でも行けなくてもその人たちは行けないことも知らないで、ただその周りでぐるぐる回って、観念的な話をし、それなりに自己満足をし、何らかそれについておしゃべりすることができる能力を身に付けたことをどこかで多少誇らしくも思い、人に自慢したり、見せつけようとしたりというようなことを一生繰り返して、この周りをぐるぐる回るだけで、結局一度も行き着くこともなく、一生を過ごすであろう。ということなんですね。

そして、美しさとは何かということについて、あれこれ言い、世阿弥の書いたものを観念的に分析して、世阿弥って例えばよく偉大だ偉大だって言われるけど、でもあんまり大したことないよと、この文章見てみても、あまり美についてちゃんと分かっている人とは言えないみたいだ、のような、そんなようなおしゃべりを仲間同士で繰り返して、そして美というものについて定義しようとか、そんなようなことを飽きもせず、ずっーとやって、そして自分が美について近付いているような、そういうふうなdelusion、そういうふうな妄想を抱いて、一生を終わる。

でもまあ、一生をそれでとりあえずは終われるわけなので、どこかで不充足感というか、どこか本当は違うというふうな、不協和音を自分の中でどこかでありはしながらも、でも一応その中でそれなりの位置を見つけ、例えばそれなりの何とかの教授とか何とかの先生という場所も見つけたりし、それなりに満足をしたりする人生を送ることもできる。まあ救いでもあるんですけれど。だけれども、決してその仮面の内側に入り込むことはできない。「花」は秘められている。そして、さっきの観念の話ですけども、69ページの後半、

「肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは[つまり肉体の動きは]後者[観念]の動きよりはるかに微妙で深淵」、「不安定な観念の動きをすぐ模倣する顔の表情のようなやくざなものは、お面で隠してしまうがよい」。「観念の動きをすぐ模倣する顔の表情のようなやくざなもの」。

ここで言う肉体というのは、美しい花を代表とするというか、要するに即自存在のことを言っている訳ですね。そして観念というのは常に、何かについての観念ですから、ですからこれは対自存在である訳ですね。だから常に従属的、依存的な存在であるわけですけれども。なので非常にこれは不安定で、そしてそれから始まっている訳ではないので、常に何かについての、きっとこれはこうに違いないああに違いない、というふうなものに過ぎませんから、それは極めて不正確であり、そして微妙ではない。深淵でもない。精妙でもない。それは常に何らかびくびくおびえている。観念というものは。

なぜか、何におびえているのか。それは自分自身が即自存在ではないので、自分自身のその観念の底というのは、すぐに割れてしまう訳です。即自存在というものは、どこまで行っても、それそのものから純粋にできているので、底が割れることはない。

 

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