「仮面を脱げ」。

ここで、ルッソー(ルソー)という人が出てきます。この人は、今から400年ぐらい前の人だと思います。それ以前はいわゆる「中世」の時代で、その頃というのは、いわゆる「暗黒時代」っていうふうによく言われている時代ですね。

なぜ「暗黒時代」なのかというと、例えば、ヨーロッパではキリスト教会の力っていうものが非常に強大で、いわゆるキリスト教的な世界観というものをある種「押し付け」られていた時代だと言われます。そして、いわゆる人間性の解放というものがあまりなされていない、抑圧的な、そういうものの中に人間というものがいる。人間というもの自体がちゃんと解放されていない時代であった。まあ、一般的にはそういうふうなことを言われる訳なんです。

そして、ここで「仮面を脱げ」と小林秀雄は言っている。

ルソーはいろんな「懺悔」をした訳ですけども、どういう懺悔なのかということなんですね。少し簡単に要約してみます。

例えばある種の抑圧。例えば、「人間というものはこうあらねばならぬ」、「本来こうあらねばならないし、こういうふうに行動せよ」というふうなことがありますね。それに対して、そうじゃない、そういうふうなことから出発するんじゃない、とルソーは言うわけです。

人間というものは、本来非常に弱い存在であって、その弱い自分というものを認めて、そして私はこんなことをいたしました、私はこういう存在でございます、ということを認めなければならない。本来人間はこうだとか、こうあるべきだとかいうふうに言われているけれども、生身の人間というものはそんな強いものではなく、そんなすばらしいものではなく、こんな弱々しい。そして生身というものを、生身の強さも弱さもそういったものを、「ありのまま表現をしていった」…と言うふうにね、ルソー自身も思い、そしてそういうふうに評価する人たちもたくさんいる訳なんです。そして、それを「解放」と呼んでいる訳ですね。「人間性の解放」。それまでのドグマ的な教会的な世界観の押しつけではなくて、「人間性の解放」と呼んでいる。

しかし、果たしてそれは本当の解放なのか。確かに一つの解放ですよね。一つの解放であることは間違いない。そうなんだけども、その一つの解放というもの、いったいそれは何を本当にしようとしたのか。その結果どのようなことが起きたのか。ここのところについては、あとからもう一度戻ってきてお話することにします。

それからもうひとつ、今の仮面の所で言うと「着物を着る以上お面もかぶった方がよい」。これは非常に重要な所なんです。「着物を着る以上お面もかぶった方がよい」。ここで「着物を着る以上」、というのは、どういうふうな意味を持っているのかということなんです。この着物っていうのはね、アダムとイブの話です。アダムとイブは何をしたのかっていうことですね。これは、実はそのまま直接的に、この話の本質になる訳なんです。

アダムとイブは何をしたのしょうか。まず神が、アダムを作り、そしてアダムのろっ骨からイブを作った訳です。(その話をどう取るかは別としまして。)そして二人を楽園の中に入れた。その時に神は何を言ったのか。「命の木の実だけを食べなさい。善悪を知る木の実は決して食べてはいけない」と、そう言ったんです。神が許したのは「命の木の実」です。これは食べてもいい。けれども、「善悪を知る木の実」は決して食べてはいけない。ところが二人は、楽園にいた蛇にそそのかされて、それを食べた。その途端、アダムとイブはどうなったか。途端、二人は裸でいることに気が付いて、それを恥ずかしく思い、葉っぱで前を隠した訳です。葉っぱで前を隠している二人を見て、神は二人が「善悪を知る木の実」を食べたということを知る訳です。

この「命の木」という言葉と、「善悪を知る木」という言葉、この二つの言葉をよく見てみて下さい。

こちらは、「生命」という、一つの全体を表しています。「善悪」と言った時に、これは「善」と「悪」に分けている訳ですね。分けています。分裂をしている訳です。ここで、世界は分裂をしてしまったんです。本来一つであるべきものを、二つに分けてしまった。善悪という尺度で分けてしまった。善悪という物差しで物事を見る。何らかの要素に分けて見る。本来「要素」というものは、この世に存在しない。もともとあらゆることは、全てが連関してあっていて、何も分けられない。「一」であるべきものですね。しかしこれを分けてしまう。

以前、般若の話をちょっとしました。あの時に、私は少し違うように言ったかも知れませんが、般若の知というものは、この善悪のように、分裂した、分けて要素にしているような分別的な知ではなくて、全一的な知のことを指すわけなんです。

まあとにかく、それまでは何も分裂がなかった世界、全てが循環しあっていた世界で、とにかく何かを分けてしまう。分けて見てしまう。これは善悪だけのことではないんです。あらゆることを分けてしまう。世界が二つに引き裂かれてしまった訳なんです。例えば、自分と他人とか、意識と無意識とか、人間と何かとか、神と何かとか。あらゆることを分けて考えてしまう。

そして、善悪を「知る」。「善悪の木」じゃないんです。「善悪を『知る』木」なんです。「知性」ですね。知というものは、分けて考える方向の動きのことを言っている訳ですけれども。

この知というものにも無限の段階があります。最高の知というものは、本来分けていない、この全一的な知なんですけれども。まあ全一的な知になると、本当の知になっていく訳なんですが。

我々は、いろんな要素に分けて考えるしか、何かを認識することができなくなるような構造の中に住んでいる。アダムとイブの寓話というものが、それを指し示している訳なんです。

 

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