さて、それでは先ほどのところを見てみましょう。
そうするとどういうことになるのかっていうことなんです。68ページの一番最初のところです。「どれもこれも何という不安定な退屈な表情だろう」。
「何という不安定な退屈な表情」。この「不安定」。いろんな顔を見てみても、皆、不安定な顔をしている。なぜ不安定なのか。それは、いつもびくびくと、他人が自分をどう思っているんだろう、ということに気を取られていて、いつも二人称の中にいる。本来、自分がどうあらねばならないのかという、そこで生きているのではなくて、今自分がこういうふうなことをしたら人はどう思うだろうか、どんなふうに評価するだろうか、悪く思うだろうか、よく思うだろうか…と、そういうことの上に生きている。
ここでは、そういうことをひとつも考えてはいけないということではないんです。
ただ現代ではそのように、他人が自分をどのように思うかということが、その人間、その存在の中心的な、その人のあらゆる全言動、行動の中心を支配してしまっている。その二人称的な構造、二人称的なエネルギーというものが、つまりこの対自存在的なエネルギーというものが、その人を満たしてしまっている。
あらゆる存在の一番源から発しているのではない。本来、その存在自体がどうあらねばならぬか、どういう存在なのかっていうことから出発して、ひたすらそれになりきろうとする、なろうとする、それであろうとする…ということではなくて、まず自分がどうあるのかっていうことから出発するんじゃなくて、いつも結局の所は人が自分をどう見るのか、また同じように自分も人をどう見るのか、そういうことばかりがその人を支配している。
だから、当然それは非常に不安定になる。
だから、自分の顔に責任が持てるような人は一人もいない。自分の顔に責任が持てるっていうことはどういうことか。それは自分自身、自分の存在っていうものがどうあらねばならぬということがその人を支配していること、自分が自分自身の中心であるということなのです。
自分の顔に責任を取れる、責任を持つということは、自分が自分というものを支配し、自分の存在自体がどういうものであるかを知っているということです。そして、自分の顔がどうであるかに責任を持つということはそのまま、絶対軸的に自分の存在というものを自分で定義しているということです。
逆に自分の顔に責任が持てないっていうことはどういうことかっていうと、私はこうします、なぜならば結局の所、あの人が私をこう思うかもしれないから…こうすることは、結局は全て他人に責任があるということになる訳ですね。自分の行動というものを、いつも人がどういうふうに思うかということを考えながら決めている。ということは、ある種の自分の本来の責任を放棄している。だから責任が取れない。
さっき言ったように、自分の行動を他人がどう思うかとか、そういうことを一切考えてはいけないということではないんです。考慮の中に入っちゃいけないということじゃない。ただし、それがその人の中心を占めているかどうかということ、人間の存在のあり方のお話をしているわけです。
例えば本来自分はこうしたいし、こういうふうにすべきであるということから出発し、そしてそうして行こうとする。そしてその時に、またそれが必然的にもたらす周りへの影響とか、そういうことについても考える。けれどもそれは二次的に考えていくものです。そしてそのように出発し、不必要な摩擦とか、そういうものについては、きちんと説明をしたりして責任を取っていこうとする。
ですからこのように、自分だけのことを考えるんじゃなくて、周りのこともちゃんと配慮はするんだけれども、それはまず最初に自分というものを確立してからであると。そして、それが必然的に波及する他者への影響というものもちゃんと見て、そしてそれをすばらしい循環になるように目を配って努力をするということが、本来の自分にも他人にも責任を取っていくということなんですね。
ところが順番が全く逆で、まず自分がどうあるべきかっていうことから出発するのではなく、人がどう思うかというところから出発して、互いに人の顔を読み合っている。そこには何ら実在というものがない。実というものがない。全て虚しかない。本当の、最終的な意味での実在もしくは実体というものがない。虚ろなものしかない。ここで言っていることは、そういうことなんです。
そして少し後に行きますけれども、69ページの「少しも遠い時代ではない」という所ですね。「無要な諸観念の跳梁しないそういう時代に、世阿弥が美というものをどういうふうに考えたかと思い、そこに何んの疑わしいものがないことを確かめた」。「物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬところを知るべし」。
この箇所についてはまた後で見ますが、「美しい花がある、そして『花』の美しさというようなものはない」ということなんですね。「美しい花」があるだけであって、「美しさ」というもの、これは勝手な人間の観念であって、実体ではない。ここでいう観念っていうのは、何々に対して、やれ、これがこういうものであるとか、ああいうものであるとか、そういうようなことです。