言葉によって支配されているということはどういうことかというと、言葉とはどこから出てくるのか、というとさきほどの「善悪を知る」ということから来ています。
言葉というのが、それ自体ある種分別しているんです。大きいと小さいとか。高い低いとか。言葉というのはある決まった方向性を持っているんです。
一つの言葉がすなわち全部を指す言葉というのはないんです。
その中でも、最も分別的でない、全部・全体に近いような言葉は確かにあります。それでもやはり分別をしている。
例えば、愛という言葉。
愛という言葉は、あらゆる言葉の中で最も全一的な丸い言葉に近い言葉です。けれども、完全なる、どこにも破たんのない、何の分別性もない、つまり愛といわゆる反対の対象というものが全くないようなものではない。それが愛という言葉で考える限りにおいては。
そして、前にもお話したかもしれませんが禅では、見性成仏って言いますよね。見性成仏して大悟すると。そのある種の方法として二つある。一つは只管打座、ただ座るということ。もう一つは何でしたか。問題を出されますよね。そうですね公案。
公案というのは何かというと、いわゆる狭い意味での論理的な思考では決して解けないような問題を出される訳ですね。
例えば、隻手の公案。両手でね、ぱーんと叩くと音が出ますけれども、片手で手を叩いたら、どんな音が出るのか。これはいわゆる狭い意味での合理的な思考では、もちろん絶対に答えは出るはずもなし、その狭い意味での合理的な答えというと、片手では叩けませんから音は出ません。それ以外には何もありようがないですよね。もちろんそれは答えではない。
そして、その狭い合理的な頭からすると、その公案そのものが極めて馬鹿馬鹿しいものにしか映らないですよね。とても馬鹿馬鹿しい。何の意味もない。そこで何をしようとしているのかというと、結局、我々の観念というものはガチガチに、そういうふうな狭い合理的な思考で固められているので、それを突き抜けたような、宇宙的な原理でしか、絶対に解けない。
そしてこの解くというのは、我々のこういう知的な動作で問題を解くっていうことでは全く解けない。我々の全存在を懸けて、その全存在でしか、全存在でその公案に対峙しないと、決して何も出てこないような問題である訳ですね。
そして、我々はいかにその言葉自体の呪縛と申しますか、言葉自体が持っているその強い力、それが世界のありのまま、そのものの力ではなく、言葉自体が持っている分裂的な構造にがんじがらめにされている我々の思考形態、世界観、それをいかにしてありのままのもの、純粋な形式、ここで言う純粋なというのは、さっきの即自存在ということですね。世界というものが本来どのようになっているのかということを、ありのまま、即自存在だけで満たしていくということ。その本来の純粋な在り方だけで満たし、ここでいう純粋なとというのは、清らかなとか、いわゆる穢れている、穢れてない、いわゆる穢れている要素を全部排除して、きれいな要素だけで満たしていくという意味ではもちろん全くありません。
大体この宇宙には穢れているものって一つもありませんし、清らかなものも一つもない。もし言葉を使うとするならば、全てのものは清らかであって、それを清らかとか、穢れているというふうに思うのは我々の、今言った思考の形式、この言葉の虚妄によって我々がそういうふうに分別して区別をしている訳なので。
ここでまた難しいのが、ではそういうものがないのかというと、ないことはない。
つまり、我々のその穢れているとか穢れてないとかっていう時に何を意味しているのかっていうことに、何の意味もないのかというと、そうではない。けれども、それはその意味というものは我々が通常与えているような意味とは全然違う、もっと大きな意味があるんですけれども、それはなかなか分かりにくい。
少しちょっと抽象的なお話の方に行っていますので、一旦休憩をしてまたお話をしたいと思います。