まずここまで、ご質問はないでしょうか。

前回は、私が考えていることをいろいろ、自由にお話していきました。今日は、この間のお話のしかたとは全然違って、まあこの本をある種朗読をしている…もちろん、ただ朗読をしているだけということではないんですけれども。

皆さんが今、どのようにお感じになっているのか分からないんですけれども、特に今日、本をお持ちになってない方は、場合によってはすごく退屈されることになっているかもしれないと思いながらお話をしております。どんな感じでしょうか、何かご質問とかありませんでしょうか。

質問

61ページに、「心を離れて外界に存在すると一般に認められているものは、実は心が生み出した表象に過ぎない。外界の物質的存在が心に映写されて表象が形成されるのではなく、心の中にそのものが存在しているのだ」というところがあって、ここが唯識のポイントじゃないかと思うんですけど、ここのところがですね、何かこう…頭の中で分かったという感じまで理解できないです。

それと、「ここに赤い花がある。しかし、これを赤い花と認識するのは、赤い、花だ、という念を起こさせるものがこちらの心の中にあるんであって、こちらに赤い花だと認識する念がなかったら、それは赤い花として存在しない。」この辺りのことを、もうすこし分かりやすく話していただきたいと思います。

そうですね…我々は通常、いわゆる「認識」ですとか、そういうことをそんなに深く考えているわけではありません。考えるとしても漠然と、これがあるからこれが見えるんだ、というふうに思うわけです。

何かを見るときには、例えばこのような「黒いペン」として、ある種の表象というものを我々は抱くわけです。このとき、この「表象を抱く」ということについては、皆さん疑いはないということでよろしいですよね。そうすると、この表象というのは一体どこから来るのか。この表象というものが一体どこに属するのか、っていうことが問題になるわけです。どこに所属するのか。

この「ペン」そのものに表象の元があるのか。それとも、元は「ペン」の方にではなくて、あくまでも我々の心にあるのであって、そしてこれを表象できる認識作用、もっと言えばこのような表象そのものが、もともと我々の中にあるのか。

後者である場合には、それを表象できるような認識機能もまた、我々の側に共存してあって、そして何らかの理由によって、この表象というものが「現勢化」するというわけです。

このことを、少し別の方向から考えてみましょう。

表象の元がこの「ペン」の方にあるとするならば、これがなければ絶対に表象は起きないということになるわけです。この「ものがある」ということ、括弧つきの「実在性」の方に表象の根源があるとするならば、ものがなければ当然、どのような表象も起きようがないということになります。じゃあ本当にそうかって言うと、必ずしもそうでもないのです。

この本では夢の話に例えられていましたけれども、夢の話でなくても、例えば我々が何かを探している時に何か別のものが、探しているもののように見えるということってよくあります。行ってみると違うんですよね。けれども何か一瞬、探しているもののように見える、一瞬それのような気がする、それが見えたというふうに思い込むっていうことはよくあることです。

だから、ここで言っていることっていうのは、通常のいわゆる「健全」な状態—まあ、あえて「健全」という言葉を使ったんですが—というのは、そこにある種の「分断」がない状態です。分離がない状態で、いわゆる「もの」もある種「実際にあり」、またそれを「『ある』というふうに」「認識する」ということ、それが「健全」な状態です。

逆に、これが「ある」けれども「認識しない」っていうことだってあり得ますよね。例えば「灯台もと暗し」というか、探していてこれを見ている、見ているんだけど見えていないということもよくあります。これが存在しさえすれば、必ずその表象を抱くというわけじゃないということなんです。

だから、「健全」な状態ですと、「ある」ということと「認識」が、いわば一対一対応するわけです。「実在性」—括弧つきの、いわゆる唯物的な意味での「実在性」—と、それからその「認識」というものの間に、何の隙間もなく、何の齟齬(そご)もなく、何の違いもなく、100%これが合同であるという状態、そういう場合には特に何の問題も起きませんし、それがいわゆる「健全」な状態であるわけなんですけれども。

でもその時、この「実在的」な物っていうのがとても強いエネルギーを持っているために、やっぱり我々は何となく、いわゆる「物」が「ここにある」っていうのは動かせない事実だろう…というふうに、思ってしまうんです。だから何となく、「物」があるのが先だと思いがちです。だけれどもよくよく考えてみると、根源的には「物」が先ではなくて、この「認識」というか、この「心」、「識」が先だと。今までいろいろお話をしてきたように、必ずしも「物」がなくても、「識」というものは存在しうると。

最初のここの所は、お聞きいただいていかがでしょうか。

質問

物がなくても心の中にそれが見えてくるとなると、結局、自分の記憶とかデータというのがなかったら、物は見えないということですか。例えば携帯電話というのが私の以前の記憶にはなかったら、携帯電話を見てもこれは携帯電話と認識できないっていうことでしょうか。過去のデータがあってこそ見えるということだったら、今までになかった新しい物が存在した時は、自分には見えないということになるのかなと思いますけど。

携帯電話というのはいわゆる新しい物ですよね。我々の識の中に、もし初めから完全に、それが存在しないとするならば、今に至っても携帯電話というものを認識することはできません。潜在的にそれを認識できる能力が我々の中にあったからこそ、携帯電話という物を、携帯電話として考えることができる、それを認識することができるわけなんです。

例えば今までになかった携帯電話というもの、それ自体は新しいものように見えるかもしれない。けれども本当に完全に新しい物だったら、認識しようがないわけです。何らかそれを、そういうふうに認識できるような能力が我々の中にあるから、そういうふうに認識できるわけなんです。そうふうなレベルでのお話なんですね。

 

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