これはね、非常に象徴的なお話なんです。通常、我々を動かしている「強い力」って何かというと、これはいわゆる「感情的な力」です。少し古い言葉で言いますと、情念ですね。これ英語では、passionと言いますね。このpassionという言葉はpassiveと同じところから来ています。passiveというのは「受動」ということなんです。

もう少し考えて「受動」というのはどういうことかといいますと、「何々に対して起こる」っていうことなんです。つまり、受け身っていうことなんですね。先に自分があるんではなくて、何かが先にあって、それに対して受動的ということです。

この情念というのは非常に強いので、我々は何となく、ものすごくいろんな感情がわき上がっている時っていうのは、それは自分の中からわき上がっているような、そんな錯覚を持ちますけれども、実際には逆なんです。ウワーッて何かすごい感情がわき起こる時っていうのは、よく考えてみたら、必ず先にある何かに対してそのような感情というものが、実は受動的にわき起こっているわけであって、我々自分自身がね、何もない所から能動的にそれを発生させているわけでも何でもないんです。

何もない所から、まあ無からと言ってもいいでしょうか、無から有が生じているわけではないんです。必ず、何かに対してそれが起こっている。このように、この極めて強い感情的な力は、受動的に起こっているので、実はね、これそのものがとっても不自由なものなんです。今は、あまりこのことについては長くお話いたしませんけれども、このことは、後のお話にそのままそっくり繋がってきます。今日の唯識(ゆいしき)、阿頼耶識(あらやしき)、末那識(まなしき)の話と、そのまま繋がってくるお話なんです。

我々が目指していくところは、本質的な自由であるわけですけれども、その本質的な自由というのは一体どのようにして得られるのか。また、そもそも我々はなぜ不自由なのか。なぜそのようないろいろなものに囚われているのか。そのあたりもそのままですね、唯識を勉強していくことから、いろんな形、いろんなレベルで気がついてこられると思います。そうですね、今日皆さん、本をお持ちですよね。今日はこの本を中心にやっていきます。ただし、声を出して読みながら進めますので、そのときはよく聴かれながらやっていただきたいと思います。

その前に、今日お渡ししたプリントをご覧いただけますでしょうか。これはもともと「ホメオパシーと錬金術」というタイトルで、あるイスラム系の雑誌に書いた物ですけれども、前半のホメオパシーについてのところ(本当は最初からずーっと読んでいただいた方がいいんですけれども、まあとりあえずちょっと飛ばします)、3ページ目のちょうど真ん中ぐらいを開けていただきたいと思います。まあ途中からになりますけれども、この箇所を読んでみます。

「ではあらゆる病気、あらゆる苦しみの根源とは一体何でしょうか? ホメオパシーではそれをDelusion(幻想・妄想・仮妄)と呼んでいます。あらゆる病気や苦しみの根源は、実にこのDelusionにあるというのです。ここにおいて、ホメオパシーと仏教の唯識とは直接繋がってきます。Delusionとは正に唯識そのものでありますし、その最下層に布置されるマヤズムはその構造といい機能といい、正に唯識で言う『汚れたマナス』そのもの、つまり我執の識である第七識の末那識と、その熏習を受けた最下層の第八識の阿頼耶識との同時因果的な相互作用に他なりません。

唯識は一般に極めて難解といわれていますが、理論として難しいだけでなく、実践智として、自分において実存的に会得するのには極めて長い期間を要す、とされています。正にホメオパシーのDelusionと全く同じです。そして不思議な共時性とでもいうのでしょうか、英国でもホメオパシーを仏教を通して理解しようとする人々が最近ポツポツ出てきているのは、とても興味深いところです。

というわけで、仏教の唯識を中心としてイスラムのスーフィズムとの対比も用いながらホメオパシーの根本を説明したいと思いますが、最初は狭義の病気に絞り、病気とは何か、何が病気の主体なのかを考察し、その後に病気の根源に遡り、あらゆる苦しみの根源としてのDelusionについて、唯識、スーフィズムに触れながら徐々に深く考察していきながらホメオパシーのレメディー(薬)とはいったい何なのかを説明したいと思います。

ホメオパシーでは病気[というもの]は一種類しかありません、と言うと、そんな馬鹿な! という声が聞こえてきそうです。結核・ガン・エイズ・コレラ・チフス・パーキンソン…難病だけでも幾らでもあるのに、よりによって病気は一種類しかないなどとよく言えるもんだ、というように驚かれると思います。確かに[いわゆる]病名はたくさんあります。しかし病名とは人間が勝手につけた名前であって、病気そのものではありません。

ホメオパシーでは『病気[というもの]はVital Force(生命のエネルギー)が障害を受けている状態』という一種類しかないと考えています。そして『風邪というものは存在しない。Aさんの風邪とBさんの風邪は違う。存在するのは一人一人固有の症状、[固有の]存在のあり方をしている人がいるだけである』と考えます。

ですから病気の主体とは、[いわゆる]外的な要因ではなくその人の存在のあり方であります。つまり結核、コレラ[という病気]の主体とは[いわゆる]結核菌やコレラ菌[そのもの]ではありません。なぜならもし結核菌が結核の[最終的な真の]主体であるならば、結核菌が存在すれば『自動的』に結核になるはずですが、実際にはそうではありません。結核菌がうようよしているところにいても、結核になる人とならない人がいます。

そう言うとその違いをもたらすのは体力、防衛力、免疫力の問題である、という人がいるでしょう。仮にそうであってもその[いわゆる]体力、防衛力、免疫力というもの、それらは全てその人のあり方の一部であります。つまりその人が病気になるかならないかということを最終的に決定するもの、つまり病気の主体[最終的な真の主体というもの]は、あくまでその人のあり方[存在のあり方](Way of Being)であるわけです。

ではその人の[存在の]あり方とは何か、いったい何がその人のあり方を決定し支配しているのか? 唯識・スーフィズムを引合いに出しながら、このテーマをじっくりと説明していきましょう。

 

⇒次のセミナー

⇒森羅万象インデックス