森羅万象セミナー

第2回 §5

唯識

唯識とは文字通り『実在する[真に最終的な実在]のは唯(ただ)識のみで ある』とい う意味です。もう少し詳しく言うならば、すべての存在には実体がなく、それ を実体だと 感ずるのは心の深奥にある阿頼耶識(あらやしき)の中に、無始以来の業によ って生じた 記憶(種子)があって、それが外界の一つの縁にふれたときに一つの存在とし て認識され るのであり、それゆえに全ての存在は自分の識(こころ)のなかにあるものの 表象に過ぎ ず、実在するものはただ識[こころ]のみである。よって全ての現象は阿頼耶 識の種子よ り展開生起する、というのです。

これは言葉を変えて言うと、唯物論か唯心論かという議論であります。ここ に花があ る、もう少し正確に言うと『ここに花がある、と私が認識している』とします 。[いわゆ る]唯物論の場合、目や認識機能があろうがなかろうが[関係なく]花は存在 する、つま り花[というもの]がまず存在し、そして偶然に私の目を通じて私が認識した のであっ て、私がたまたまそこにいて認識してもしなくても、そこに花[というもの] が存在する というのは当然のことであり、自明のことである、とします。

これに対し唯心論は真向から対立します。ここに花があって目がそれを見る のではな い。[我々の]深層意識の中に花という形象[というもの]が[もともと]潜 在的に存在 しており、同時にそれを知覚する能力[というもの]もまた共存していて、そ れが現勢化 するときに花の認識作用[というもの]が行われる、つまり認識を行なう心が あって初め て花[というもの]が存在するのであり、心がなければ花は存在しない、とい うのです。

この議論は、一見圧倒的に唯物論の方に分がありそうです。高校時代に先生 からその話 を聞いた時、唯物論の方が正しいに決まっているではないか、もし私がいなく ても、私が その花をたまたま認識できないだけであって、他の人は認識できるし、また仮 に誰もその 花を見ていなくても、もちろんその花は存在する。アマゾンの奥地には前人未 到の密林が 鬱蒼と生い茂っているが、そこには花の一生のあいだ人の目に触れない花は無 数にある が、人が認識しないからその花が存在しないとでも言うのだろうか。全くバカ バカしい。 議論する余地もない。唯心論なんて信じている奴は、本当に馬鹿だ!と思いま した。

しかしその後馬齢を重ねるうちに、私はすっかり改宗回心し、現在は全く唯 心論、唯識 は正しい、と日々実感しています。といって唯物論が全面的に間違いである、 というので はなく、それはその相に於ての[いわゆる]『仮の真実』[その相だけにおい て真実であ ると一応言えるような、その相においての、いわゆる相だけのいわゆる限定的 な真実]に 過ぎないというだけであります。あたかもニュートン力学[というもの]が量 子物理学に よって全面否定されたわけでなく、巨視的な相に於ては一応の『限定真実』[ ニュートン 力学というものが正しいというふうに考えて特に差し支えないというふうない わゆる限定 的な真実]であるのと似ているかもしれません。

今のところは4回目にやります。

それはともかく、唯識・唯心論に対する疑問は、ヴァスバンドゥ(Vasuban dhu 世親) の手による『唯識二十論』に集約されて提議され、そしてそれに対して一つ一 つ回答して います。少々長めではありますが、とても重要なポイントですし、分かり易い 現代語訳を されていますので、ぜひそのまま引用したいと思います。

ここから引用ですね。最初にその唯心論に対しての反論が書いてあります。こ ういうふう な反論というものをおそらくされるであろうという反論ですね。

もし、外界の対象[というもの]が実在せず、表象が心の内部に潜在する経 験の余力か ら生ずるとすれば、

(1)ある物の表象は、なぜ特定の場所においてのみ生じて、すべての場所に おいて生じ ないのか。

(2)しかもその場所において、表象はある特定の時にのみ生じ、つねには生 じないのは なぜか。

(3)実在しない髪の毛などの幻覚は、眼病者のみにおこるのであって、他の 人々にはお こらない。それに反して、ある物の表象はただひとりの人にのみ生ずるのでは なく、場所 と時間とを同じくするすべての人の心に生ずるのはなぜか。

(4)眼病者の幻覚にあらわれるものや、夢の中で見られるものなどは、実際 にそのもの の高揚をはたさない。夢の中で蛇に咬まれたり武器で傷つけられたりしても、 目ざめたと き身体に毒がまわっていたり、傷跡がのこっているということはないからであ る。しか し、目ざめているときに表象されるものは、実際の効用をはたす。このことは 、どう説明 されるか。

つまり、これらの疑問は、もしいわゆる「物」っていうものが本当に実在する ということ ではなくて、我々の「心」が最終的な実在とすると言い張るならば、こういう 現象をどの ように説明するのか、と問いかけているわけです。

通常はですね、「ここに本がある」というふうに我々は表象を起こす、つまり 認識しま す。普通はそういうふうに思いますでしょう。「この本」が実際に存在するか ら、皆さん は全員「この場所に」「この空間に」「今ここに」「この本」が存在をすると いうことを 等しく表象する、認識することができる、と、普通はそう思いますね。「この 本」が「実 際に実在する」からこそ、これに対する認識というものを持って、我々はここ に本当に存 在するというふうに思うはずである、と。

先ほどの(1)・(2)・(3)の疑問というのは、もしも実際に「物」が存 在しなく て、我々の「心」というものが最終的な実在だと言うならば、ある人はここに 見える、あ る人は全然見えないというふうなことになってもおかしくはないではないか。 それが、全 員「ここに」「これがある」というふうに見えるということは、実際にこれが あるから、 実在するから皆が等しくそういうふうに思うわけである、と。だから、ものが 実際に実在 するということは、これは疑い得ないのではないか、そう言っているわけです ね。

また(4)では、いわゆる「心」の中で起こること、ここでは夢の中で起こる ことを例に 出して疑問を投げかけていますね。蛇に咬まれた夢を見ているとする。本当に 蛇に咬まれ たんだったら出血をして死ぬかもしれないけれども、実際には蛇に咬まれてい ないわけだ から、夢の中で蛇に咬まれても、目が覚めたら「ああ助かった」と思って、実 際にはね、 傷も付かない。それは、夢というものというか、我々の「心」の中に起こるこ とが最終的 な実在ではないから、あくまでも実際に実在しているのが「物」であるからと いうことで はないか、っていうことですね。

続く

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