唯識

唯識とは文字通り『実在する[真に最終的な実在]のは唯(ただ)識のみである』という意味です。もう少し詳しく言うならば、すべての存在には実体がなく、それを実体だと感ずるのは心の深奥にある阿頼耶識(あらやしき)の中に、無始以来の業によって生じた記憶(種子)があって、それが外界の一つの縁にふれたときに一つの存在として認識されるのであり、それゆえに全ての存在は自分の識(こころ)のなかにあるものの表象に過ぎず、実在するものはただ識[こころ]のみである。よって全ての現象は阿頼耶識の種子より展開生起する、というのです。

これは言葉を変えて言うと、唯物論か唯心論かという議論であります。ここに花がある、もう少し正確に言うと『ここに花がある、と私が認識している』とします。[いわゆる]唯物論の場合、目や認識機能があろうがなかろうが[関係なく]花は存在する、つまり花[というもの]がまず存在し、そして偶然に私の目を通じて私が認識したのであって、私がたまたまそこにいて認識してもしなくても、そこに花[というもの]が存在するというのは当然のことであり、自明のことである、とします。

これに対し唯心論は真向から対立します。ここに花があって目がそれを見るのではない。[我々の]深層意識の中に花という形象[というもの]が[もともと]潜在的に存在しており、同時にそれを知覚する能力[というもの]もまた共存していて、それが現勢化するときに花の認識作用[というもの]が行われる、つまり認識を行なう心があって初めて花[というもの]が存在するのであり、心がなければ花は存在しない、というのです。

この議論は、一見圧倒的に唯物論の方に分がありそうです。高校時代に先生からその話を聞いた時、唯物論の方が正しいに決まっているではないか、もし私がいなくても、私がその花をたまたま認識できないだけであって、他の人は認識できるし、また仮に誰もその花を見ていなくても、もちろんその花は存在する。アマゾンの奥地には前人未到の密林が鬱蒼と生い茂っているが、そこには花の一生のあいだ人の目に触れない花は無数にあるが、人が認識しないからその花が存在しないとでも言うのだろうか。全くバカバカしい。議論する余地もない。唯心論なんて信じている奴は、本当に馬鹿だ!と思いました。

しかしその後馬齢を重ねるうちに、私はすっかり改宗回心し、現在は全く唯心論、唯識は正しい、と日々実感しています。といって唯物論が全面的に間違いである、というのではなく、それはその相に於ての[いわゆる]『仮の真実』[その相だけにおいて真実であると一応言えるような、その相においての、いわゆる相だけのいわゆる限定的な真実]に過ぎないというだけであります。あたかもニュートン力学[というもの]が量子物理学によって全面否定されたわけでなく、巨視的な相に於ては一応の『限定真実』[ニュートン力学というものが正しいというふうに考えて特に差し支えないというふうないわゆる限定的な真実]であるのと似ているかもしれません。

今のところは4回目にやります。

それはともかく、唯識・唯心論に対する疑問は、ヴァスバンドゥ(Vasubandhu 世親)の手による『唯識二十論』に集約されて提議され、そしてそれに対して一つ一つ回答しています。少々長めではありますが、とても重要なポイントですし、分かり易い現代語訳をされていますので、ぜひそのまま引用したいと思います。

ここから引用ですね。最初にその唯心論に対しての反論が書いてあります。こういうふうな反論というものをおそらくされるであろうという反論ですね。

もし、外界の対象[というもの]が実在せず、表象が心の内部に潜在する経験の余力から生ずるとすれば、

(1)ある物の表象は、なぜ特定の場所においてのみ生じて、すべての場所において生じないのか。

(2)しかもその場所において、表象はある特定の時にのみ生じ、つねには生じないのはなぜか。

(3)実在しない髪の毛などの幻覚は、眼病者のみにおこるのであって、他の人々にはおこらない。それに反して、ある物の表象はただひとりの人にのみ生ずるのではなく、場所と時間とを同じくするすべての人の心に生ずるのはなぜか。

(4)眼病者の幻覚にあらわれるものや、夢の中で見られるものなどは、実際にそのものの高揚をはたさない。夢の中で蛇に咬まれたり武器で傷つけられたりしても、目ざめたとき身体に毒がまわっていたり、傷跡がのこっているということはないからである。しかし、目ざめているときに表象されるものは、実際の効用をはたす。このことは、どう説明されるか。

つまり、これらの疑問は、もしいわゆる「物」っていうものが本当に実在するということではなくて、我々の「心」が最終的な実在とすると言い張るならば、こういう現象をどのように説明するのか、と問いかけているわけです。

通常はですね、「ここに本がある」というふうに我々は表象を起こす、つまり認識します。普通はそういうふうに思いますでしょう。「この本」が実際に存在するから、皆さんは全員「この場所に」「この空間に」「今ここに」「この本」が存在をするということを等しく表象する、認識することができる、と、普通はそう思いますね。「この本」が「実際に実在する」からこそ、これに対する認識というものを持って、我々はここに本当に存在するというふうに思うはずである、と。

先ほどの(1)・(2)・(3)の疑問というのは、もしも実際に「物」が存在しなくて、我々の「心」というものが最終的な実在だと言うならば、ある人はここに見える、ある人は全然見えないというふうなことになってもおかしくはないではないか。それが、全員「ここに」「これがある」というふうに見えるということは、実際にこれがあるから、実在するから皆が等しくそういうふうに思うわけである、と。だから、ものが実際に実在するということは、これは疑い得ないのではないか、そう言っているわけですね。

また(4)では、いわゆる「心」の中で起こること、ここでは夢の中で起こることを例に出して疑問を投げかけていますね。蛇に咬まれた夢を見ているとする。本当に蛇に咬まれたんだったら出血をして死ぬかもしれないけれども、実際には蛇に咬まれていないわけだから、夢の中で蛇に咬まれても、目が覚めたら「ああ助かった」と思って、実際にはね、傷も付かない。それは、夢というものというか、我々の「心」の中に起こることが最終的な実在ではないから、あくまでも実際に実在しているのが「物」であるからということではないか、っていうことですね。

 

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