ヴァスバンドゥはこれらの反論に次のように答えている。

(1)(2)表象が空間的・時間的に限定されて生ずるということは、必ずしも表象されるものが外界に実在することを前提としない。なぜならば、夢の中では、実在する対象がないのに、ある特定の場所にだけ花園や男・女などが見られ、しかもその場所において、いつでも見られるというのではなく、ある特定の時にだけ見られるからである。

(3)前世で行なった行為の結果として餓鬼の状態におちいっている者は、みな一様に、清らかな水が流れている河を前にして膿や尿や汚物に満ちた河の表象をいだき、実際にはそこにおりもしない番人たちが、棍棒や剣をもって監視しているという表象をいだく。したがって、表象がひとりの心だけに生ずるのではないからといって、対象が外界に実在することを認めねばならぬ理由はない。

(4)夢の中にあらわれた異性との交わりによって夢精がおこる。すなわち、実在しないものでも実際に効用をはたすのである。

これは「仏教の思想 認識と超越<唯識>」という、本の中に書いてあります。で実はこの本は皆さんがお読みになった「密教誕生」の種本の一つです。今の箇所は、実はこれがそのままそっくり、使われています。

四つの鋭い疑問に対してどのように反論するのかと思いきや、夢の話を出されて唖然というか、だまされたような気がされた方もいらっしゃると思います。夢の中で見た対象は、目が覚めた時には消滅していますので、それは夢であった、それは実在しないということがはっきりとわかりますが、目覚めている時に見る対象については、そうではありません。見ていても見ていなくても、それは『絶対的に』存在する、と思うわけです。

ですから夢の例を出されても、『そんなことでは騙されないぞ!』と、疑いの火に油を注いだように懐疑が燃え盛ってしまうかもしれません。しかし、実は夢の例ははぐらかしているのでも何でもなく、これ以上ないほどに的確な比喩なのです。

ヴァスバンドゥは夢の比喩に対してこのように反論する人に対してこう言います。

『夢の中で見る対象が実在しないことを、いまだ目覚めていない人は悟らない』

これは実は狭義の夢の話ではなく、私たちが[いわゆる]現実だと思っていることは夢のようなものであり、[いわゆる]『気付き』とは、自分が閉じ込められていた『夢』から目覚めることで、それが小さな気付きであっても大きな気付きであっても、気付く前、つまり目覚めた前と後では世界が違っているのです。気付く前はそれが現実だと思っていたわけですが、実はそれは現実ではなかった、つまり妄想されていた現実であったわけです。ホメオパシーではそれをDelusion(幻想・妄想・仮妄)と呼びます。

その妄想されている現実が、どのように苦しみを起こしているか、それがどのように狭義の病気、即ち心や身体の苦しみにまで表現されているのか、そして実は人を苦しめる根源的な力そのものが、そのままその人を苦しみから開放する源泉となるという秘密と妙味、それが『似たものが似たものを治す』ということの秘められた本当の意味であること(正に密教です)、そしてその力をホメオパシーではレメディーと呼ぶこと、また今回にはイスラムの密教、あの驚くべき大伽藍、スーフィズムは未だ出てきていませんが、微分という数学の解析学!の概念を援用して、ホメオパシー・唯識・スーフィズムの黄金の三角形について次回はご説明したいと思います。

一番最後のところはかなり急いで書いておりますので、この辺は今日、ゆっくりお話をしたいと思っています。

この「夢」っていうことですけれどもね、我々は夢ということについて、普段あまり真面目に考えていません。せいぜい夢判断だとか、夢っていうものは何らかの前兆・予兆ではないかとか、その程度に考えるくらいで、それ以上はあまり考えておりませんね。

後は「人生夢が如し」とか、まあそれもあまり深い意味ではなくて、何と言うんでしょうか…レトリックというか修辞学というか、単なる文学的な表現程度であって、「人生夢が如し」と言ってもまあそんなに深く考えて使っているわけではなくて、何となく感覚的にそういうふうなことを考えたりすることはあるかもしれませんけれども、夢っていうことの本質について考えるっていうことは、通常はなかなかないと思います。

しかしながら、後でまたゆっくりと展開していきますように、我々が今生きているところの「世界」っていうものは、実はこれはまさしくその人にとってのね、「夢」なんです。なぜそれが「夢」だっていうふうに私が言うのかっていうと、それはどちらにしても、人間というものは一人一人、必ずその人の、その人に応じた、その人の凸凹に応じた世界観というものを持っている。つまり、ありのままそのものの、ありのままの世界ではない、必ず何らか偏った、何らかその人の凸凹に応じた、それによって形成された世界観というものを持っているわけですから、ですからそれは「ありのままの世界ではない」という意味において、それは「妄想」なわけなんですね。

まあ「妄想」と言うと、何らか少し、きつい言葉であるような感じがするかもしれません。何かいわゆる幻覚的なこと、いわゆる統合失調症の人たちが見るとされている「幻覚」、例えば自分は100人の敵に狙われているとか、目の前に他の人には見えない何かがあるとか、まあそういった程度のものを通常は、幻覚・幻想・妄想というふうに思われていると思いますけれども、そのような狭い意味ではなくて、要するに本当のありのままでないような考えを持つこと一切を、広い意味で「妄想」というふうに呼ぶわけなんですね。

ありのままでない世界観。この妄想というものは、人類は100%の人が持っているもの、この歴史上、厳密な意味でこの妄想を持っていない人は誰もいらっしゃらないわけであって、誰しも何らか必ず持っています。まあ少し、妄想という言葉が強く聞こえるかもしれませんけれども。つまり、その人なりの世界観というものはね、全てこれは、どちらにしてもありのままそのものではない、あくまでもその人なりの捉え方に過ぎないものなんです。

まあごくごく簡単に申しますと、どのような人も必ず、凸凹がある。何らか非常に敏感な所と、鈍感な所がある。いろんな偏りが必ず心身にあるわけです。そうしますと、いろんな物事っていうのは、必ず、それに応じて起こってくるわけですね。例えば、Aさんという人にはこのようなことが起こってくる。また全然違う凸凹を持っているBさんという人がいるとしますと、このBさんにはBさんの凸凹に応じたようなことが起こってくるわけですね。で、Cさんがいると、全く同じようにね、CさんにはCさんの人の凸凹に沿ったことが起こります。

 

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