先ほど、ちょうど免疫機能の抗体の話をいたしました(第2回-9)。あのお話が真に意味するところっていうのは、こういうことなんです。

抗体というものは、初めからただもうでき上がったものが用意されているということではなくて、どのような抗原がやってきても、それにあわせて作られる。我々の認識も同じで、何が提示されてもそれに合わせて作用することができる。ということは、そのような物が潜在的に、もともとそのキャパシティの中に入っているということなんです。

だから、その携帯電話というものに対する認識も、そのキャパシティの中にあるというふうに言った方が分かりやすいかもしれないです。どうでしょうか。

質問

見えるっていうのと認識できるというのはまた別ということでしょうか。物は見えるけどそれは認識できない…

そうですね、何かをみるときに、目というレンズの中には一応「映っている」。けれども、それは「映っている」だけで、それは「認識している」こととは違っているわけですよね。

例えば、いわゆる目が見えない人にもレンズはある。レンズはあるけど画像は結んでいない。けれども画像が結びさえすれば、認識するというわけではありませんね。また例えば、今までは見えていても、何らかのショックによって目が見えなくなったという方もいらっしゃいますよね。その人たちは、画像を結び、神経的に信号も行っているはずなんだけども、でも何らかの理由によってその信号をキャッチできない。で、何らかのきっかけによって、また突然目が見え始めることもあるわけです。その時には、非常に微細な所での変化っていうものが当然あるはずなんですけれども。

先ほど五感のお話をしたときには、「見る」という機能と、そのものを「認識する」できるということが多少混在しておりましたけれども、目ということで言えば、画像を結ぶというレベルと、それを認識するというレベルとはね、そこには一応違いというものがあるわけです。単なる画像というものから、ある意味のある信号として我々がそれを受容して、そしてそういうふうな表象を抱くというところまでは、実際には結構距離があるわけなんですね。

質問

この本に書かれていることは、赤い花を見てそれが「ある」かどうか、それを問題にしているじゃないですか。これは物を「見る」ということだけではなく、音とか触った感覚とか、そういうことについても同じことだと思うんですけれども。たまたまここでは、「見る」ということと「認識」ということで言われていましたけど、「物がある」というのは、見るだけじゃなくて触ったり聞いたりもして「認識」するわけですよね。

もう一つですね、例えばさっきの携帯電話のことですけれども。私たちはもう携帯があるということを知っているわけですが、まだ知ってない人はそれを認識できるのかどうかと、先ほどの方は、そのことを言われたんじゃないかなと思います。例えばアフリカの人とかですね。私は知らないけど、この世の中にこれから発明される物というのは既に、そのアーラヤ識ですか、そのアーラヤ識の中には存在しているというか、そういうことでしょうか。

そうですね、先ほどキャパシティという言葉に言い換えました。例えば現在のアフリカの人でも、それをそんなふうに認識できるキャパシティというのは、十分あり得ると思います。でも、携帯電話をこのコップに認識させることは可能でしょうか。このコップが携帯電話というものを認識するということは可能でしょうか。キャパシティというのは、そういうふうな意味なんです。

質問

先生、その携帯電話の機能を認識することと、物として見えるということ、その境というか、その所が分からないんです。例えばここにマッサージ器があります。私はこれを五歳の時、何だろうと思っていたんですね。で、聞いたら、こうやってゴロゴロするものだって言われて、ああ、これは手動式のマッサージ器だということが分かったんですけれども。

最近アフリカの人に携帯電話を持って行って、これは何なのか見せたとします。アーラヤ識にそういう情報がないと見えないということが、物があるのは見えるけれども機能が分からないだけなのか、物そのものが見えないのか、そこの所がちょっと分からないです。

先ほど申し上げましたように、瞬間的にそれが何なのかということを全体として認識するということは、その時にはもちろん難しいと思います。今、申し上げたいことはそういうふうなレベルの話とは全然違う話なんです。

例えば、携帯電話を見て、すぐにそれが何なのかは分からないかも知れません。ですが、これはこういうふうなものですっていう説明をされたり、これがどのように使われているかを見たりしているうちに、なるほどこういうものかと分かりますよね。

じゃあ、それが例えばこのコップに分かりますかっていうことなんです。コップに分かり得る可能性というのはあるでしょうか。ここでお話したいのは、そういうふうなことなんです。

質問

今日のお勉強というのが、前回がこの世の中は何ですかっていう内容だったですよね。で、今日のお勉強は、じゃあ自分というのは何なのかっていうお勉強かと思うんです。

その中でこの密教を捉えられたということですよね。この密教の目的というのが本当は、輪廻転生、生まれ変わりしていますよ、その輪廻というのは苦しいんですよ、と。で、それから抜けましょうと、これが解脱ですよね。輪廻から抜けるためには、輪廻転生している、生きている本質というのは何なのかを知って、その本質をどうすれば、どうなれば解脱になるのかを学ぶ。これはそういう本ですよね。

まだこのセミナーの途中でもあるし、二回目お話の途中でもあるものですから、アーラヤ識がどうとか、認識の問題とか、詳しく入っていこうとするとこんがらがってくるように思います。じゃあそこで止まりますかっていうと、そこをじゃあ皆で考えていきますかっていう話になってくるだろうし。この桐山靖雄という方の考え方、密教の考え方がどこにあるのかという所で、また捉え方が違ってくるだろうと、その先生のお話の流れを聴こうと思って待っているんですけどね。

分かりました。

今回の6回シリーズというのは、まあとにかく一回やってみようと思って始めたわけですので、やりながらいろいろ考えていきたいと思います。

 

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